南帝山 清慶寺

国道372号線を走っていると、「板碑」、「石像宝篋印塔」、「南帝御首塚」という看板を見つけました。
清慶寺というお寺でした。
興味が湧いたので見学させていただきました。

板碑

家形石棺の蓋に阿弥陀三尊の種子、宝珠が刻まれています。
正和3年(1314)の銘があります。鎌倉時代末期に造られたようです。
兵庫県の有形文化財に指定されています。

宝篋印塔

宝篋印塔の塔身の四面にはそれぞれ弥陀(南面)、観音(東面)、釈迦(西面)、薬師(北面)が掘られています。塔身の四面に仏様を彫ったものは珍しいそうです。
鎌倉末期の嘉歴2年(1327)の造立です。兵庫県の有形文化財に指定されています。

南帝御首塚

後醍醐天皇曾御孫 仁尊親王陵と彫られています。側面に長禄3年8月25日(1459年)の銘があります。

長禄の変という事件が長禄元年(1457)に起こっています。

長禄の変は嘉吉の乱で滅んだ赤松氏の遺臣らが後南朝の皇胤である尊秀王(自天王)と忠義王を殺害して三種の神器の一つである神璽を奪った事件です。

赤松氏遺臣らはいったん神璽を奪うことに成功しますが、後南朝側の反撃を受け、神璽を奪い返されます。翌年(1458)、赤松氏遺臣らは自天王の母の屋敷を襲い、再び神璽を奪い取ります。その後、神璽は京の朝廷に渡されました。これにより赤松氏は再興を許されます。

長禄3年は神璽が朝廷に渡された次の年になります。
神璽奪還の功績により赤松氏再興が許されたことに対して、自分たちが殺した自天王たちをお祀りしたのでしょうか。

しかし、宝篋印塔に掘られている「後醍醐天皇曾御孫」、「仁尊親王陵」については疑問が残ります。
後醍醐天皇のひ孫は後亀山天皇の息子 小倉宮恒敦(?〜応永29年/1422年)の世代になり、長禄3年と約30年の差があります。
また、仁尊親王という人物も探し出せませんでした。

とは言っても、長禄3年ということから、この宝篋印塔は長禄の変に関したものだと考えても良いように思います。

中世は、赤松氏が播磨を治めていました。
清慶寺は加西市にありますが、青野ヶ原台地を挟んだ向こう側(小野市)には赤松氏の居城だった堀殿城(河合城)がありました。距離も約5kmぐらいしか離れていません。
このあたりにも、赤松氏の痕跡が残っているのだと思いました。