赤松政則最期の地・長円寺

明応5年(1496)鷹狩りにでかけていた赤松政則公は、急に病状が悪化し、坂田庄(加西市)の長円寺で亡くなります。42歳でした。

赤松政則公は波乱万丈の人生を歩みました。

嘉吉元年(1441)嘉吉の乱で赤松満祐は城山城で自害。
赤松討伐に功績があった山名宗全が赤松氏に代わって播磨、備前、美作の守護となります。
全滅したかに思われた赤松氏ですが、満祐のおい千代丸(赤松時勝)が戦場から脱出していました。時勝は23歳で死去しますが、男児が生まれていました。
名は法師丸。のちの赤松政則です。
長禄元年(1457)、赤松家の遺臣が南朝に奪われていた神璽を奪い返す事件(長禄の変)が起こります。この功により、赤松家再興が許され、加賀半国を賜りました。
応仁の乱(1467〜1477)の最中、赤松政則は山名氏から播磨、備前、美作を取り戻します。
その後も山名氏との戦いは続きますが、政則は播磨、備前、美作三国を守りました。

久斗山長円寺は白雉年間(650〜654)に法道仙人によって開基されたと伝えられている古刹。本尊は十一面観音菩薩です。

長円寺山門
本堂

正暦年間(990〜995)に長円上人により再興。九間四方の本堂を建て一大道場となりました。
天正5年(1577)にも兵火により全山消失。尊像は無事でした。
延宝6年(1678)実運上人が本堂を建て、尊像を安置します。現在の本堂はこのとき建てられたものです。

長い歴史を持つお寺です。
赤松政則公が死去したのは長円寺が一大道場で栄えていた頃です。
だからこそ、政則公が急病を発したときに担ぎ込まれたのですね。

獣害防止扉を開けて、本堂裏の山に入ると多くの石仏が並んでいます。
少し歩くと赤松政則公の供養塔があります。

石仏
長円寺板碑 室町時代初期の作

少し歩くと、木の根元の両側に建てられた小さな五輪塔がありました。
これが政則公の供養塔ということです。
播磨、備前、美作三国を治めた守護大名のものとしては思いのほか小さく素朴です。

赤松政則公供養塔

政則公以降、播磨の戦乱に巻き込まれ赤松氏が衰退していく歴史のなかで、この供養塔が残っていることが素晴らしいと思います。