耶馬渓・青の洞門に行きました。
耶馬渓は大分県中津市にある山国川の上・中流域及びその支流域を中心とした渓谷です。
耶馬渓は何百万年も前の火山活動によって生まれた熔岩台地が山国川などの侵食されることによってできました。
江戸時代の漢詩人・儒学者の頼山陽が文政元年(1818)にこの地を訪れ、山国谷と呼ばれていた地名の「山」に「耶馬」の文字をあて、「耶馬渓山天下無(耶馬渓ほどの絶景は天下に二つとない)」と詠んだことが「耶馬渓」の地名の由来といわれています。
本当に変な形です。
大地をこんな形に変えてしまう自然の力、それにかかった年月の長さ。自然の凄さは想像を超えています。
このあたりは競秀峰が山国川までせり出してきています。そして、その競秀峰の裾野に青の洞門はあります。
江戸時代、山国川の水がせき止められ、川の水位が上がりました。そのため、通行する人は「鎖渡し」という競秀峰の岩壁に作られた道を通っていたそうです。当然、落下する人もでます。
諸国遍歴の旅をしていた禅海和尚がここに立ち寄ります。そして危険な道で人が命を落とすのを見て、トンネルを掘り安全な道を作ろうと志します。
享保15年(1730)頃、禅海和尚は自力で岩壁を掘り始めます。このとき禅海和尚39歳。
ノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)に 洞門を完成させました。
全長342m、トンネル部分が144mの洞門です。
禅海和尚は72歳になっていました。
トンネルを出たところに禅海和尚の像があります。お顔は若く、掘り始めた頃のお姿だと思いました。
大正8年(1919)、この話を元に菊池寛が『恩讐の彼方に』を発行しました。
禅海和尚の像の反対側に菊池寛の肖像がありました。
「恩讐の彼方に」は昔読んだ覚えがあるのですが、うろ覚えなので読み返してみました。
<あらすじ>
主人の妾とできてしまった市九郎。
主人・三郎兵衛に手打ちにされそうになったとき、とっさに三郎兵衛を斬ってしまう。
逃亡の末、強盗稼業に落ちぶれた市九郎。
旅の若夫婦を殺したとき、それを悔い、出家する。
名を了海と改め、諸国修業の旅に出る。
豊後に立ち寄り羅漢寺に詣でようとしたとき、鎖落としの難所を知る。
トンネルを作ることが自分の懺悔だと心に決めた了海。
ただ一人、ノミを振るいトンネルを作っていく。
30年堀り進め、老いさらばえた了海・市九郎。
その前に主人・三郎兵衛の息子・実之助が現れる。
石工たちの懇願により、実之助は敵討ちをトンネル貫通まで待つことにする。
一刻でも早くトンネルを貫通させるため、実之助も了海の横でノミを振るう。
それから1年。とうとうトンネルが完成。
了海和尚と実之助は手を取り合って涙にくれる。
面白いストーリーでした。短編で一気に読めました。
ところが、ネットで禅海和尚を調べると、実話と「恩讐の彼方に」はかなり異なるようです。
実話
- 名は禅海和尚。本名 福原市九郎。
- 禅海和尚は両親が亡くなったことから世の無常を感じて出家。
- 禅海和尚は托鉢でお金を得て、石工を雇ってトンネルを掘った。さらには九州諸藩の協力も得て工事を進めた。
- 洞門は全長342m、トンネル部分は144m
- 洞門完成に30年
恩讐の彼方に
- 名は了海和尚。元の名は市九郎。
- 主人を殺し、その後の追い剥ぎ、人殺し稼業にむなしさを感じて出家。
- 了海和尚は村民の協力を得るのに苦労し、一人でトンネルを作ったような印象がある。
- 全長トンネルのようだ
- トンネル開通まで21年
托鉢でお金を得て石工を雇うなど、実話である禅海和尚のやり方のほうが現実味があります。
菊池寛は現地に来ずに「恩讐の彼方に」を書いたそうです。
書くこと、書かないことをうまくコントロールして、感動の話に仕上げています。
作家の創造力、技の凄さに感動です。
「恩讐の彼方に」の最後、トンネルが貫通して「了海和尚と実之助は手を取り合って涙にくれる」のですが、その後二人はどうなったでしょう?
私は、喜んで体を差し出した了海を斬って、実之助は敵討ちを遂げたと思います。
「恩讐の彼方に」と実話の違いはわかりましたが、一つの謎があります。
トンネルの明り取りの窓から山国川の対岸が見えます。
この窓は禅海和尚が開けたということなので、禅海和尚も対岸を見たはずです。
対岸まで結構近い。昔はもっと大きな川幅だったのかもしれませんが、命の危険を犯して「鎖渡し」を通るより、対岸を通ればずっと安全では・・・
なぜ、そんな危険を犯して「鎖渡し」を使ったのでしょう?謎は謎として、またの機会に調べたいともいます。
そんなことより、夕焼けの光が山国川の水面に映え、競秀峰の奇岩とマッチしてたいへん美しい。
禅海和尚もこの景色を楽しんだでしょう。