加西の石造物

加西市の石造物を見て回りました。山伏峠の石仏や上宮木石仏。そして大日寺や多聞寺のキリシタン地蔵です。

後藤又兵衛の菩提寺・多聞寺

多聞寺には背中に十字架が刻まれたキリシタン地蔵があります。
それとともに、大阪夏の陣(慶長19年/1615)で討ち死にした後藤又兵衛の菩提寺です。

大阪夏の陣のあと、元和2年(1616)に又兵衛の三男・佐太郎が父を弔うために、又兵衛の一周忌に合わせて多聞寺を開創しました。

又兵衛は姫路市山田の生まれで、多聞寺とは約8km(2里)の距離です。徳川にとって又兵衛は敵でしたが、この地域には又兵衛に味方する人も多かったのでしょう。

本堂内部に甲冑が飾られています。後藤又兵衛の身長180cmに合わせて作られたものです。
当時の平均身長は160cmに満たなかったといいます。その中で180cmなので、たいへん大きな人だったようです。さらに又兵衛は3mの槍を振り回したというので、戦場でこんな人に出くわしたら、怖すぎます。

次はキリシタン地蔵です。昭和47年に出土したそうです。写真ではわかりにくいですが、背中に十字が刻まれています。

後藤又兵衛の主人、黒田官兵衛は高山右近の影響を受けてキリスト教を信仰しました。天正11年(1583)頃に入信し、洗礼名は「ドン・シメオン」。
天正15年(1578)には息子の長政と弟の直之も洗礼を受けています。
ところが同年、秀吉が「バテレン追放令」を発布。官兵衛は直ちに棄教しました。
又兵衛は長政と兄弟のように育ったというので、又兵衛もキリスト教を信仰していたかも知れないと伝えられているそうです。
そして、父を弔うために多聞寺を建立した佐太郎が、キリシタン地蔵を多聞寺境内の地中に葬って、父を弔ったのではないかというのです。

上宮木石仏

たくさんの石仏が並んでいます。
中央にある阿弥陀如来坐像は石棺に彫られたものです。高さ1.3m、幅74cm。
仏様の形がくっきり見えます。鎌倉時代に制作された可能性があるという古いものです。

阿弥陀如来坐像

梵字で「キリーク」と書かれていて阿弥陀如来を表しているそうです。

阿弥陀如来坐像の右隣に小さな地蔵菩薩像。
こちらは室町時代の作です。
そしてその横に「キリーク」という梵字を刻んだ石棺があります。
梵字で「キリーク」というのは阿弥陀如来を表しています。なので、これは阿弥陀如来の石棺仏となるようです。

梵字「キリーク」を刻んだ石棺

梵字は古代インド語であるサンスクリット語を表す文字で、「神仏を一字で表す文字」として日本に伝来。空海が体系化したと伝えられています。

山伏峠の石仏

フラワーセンターの方へ向かう県道716号から「サイクリングはこちら」の看板に従って走っていくと、道端に石仏が現れます。

石仏は3体ありました。

一番手前にある石仏は家型石棺の蓋に阿弥陀坐像が彫られています。
大きさは高さ 2.3m、幅 1.2m。巨大です。建武4年(1337)に建てられました。

家形石棺の蓋なので、形が直線で構成されていて、縄を掛ける突起があります。
蓋の厚みは40cm。分厚いです。

奥の方には3体の仏様(薬師三尊坐像)が彫られた小さい石仏と、長持ち型石棺の蓋に彫られた阿弥陀如来様がいます。
阿弥陀如来様は高さ2.1m、幅1m。巨大です。

阿弥陀如来像の左右には小さな仏様(六地蔵)が彫られています。
この石棺仏は康永4年(1345)の銘があります。
こちらは長持形石棺の蓋なので、後ろから見ると丸みがあります。

家形石棺は身が箱型。蓋は屋根型で、屋根には4〜6個の縄掛け突起があります。
長持形石棺は底石と前後左右の側石を組み合わせて、上にかまぼこ型の蓋をのせたものだそうです。
長持形石棺は古墳時代中期、家形石棺は古墳時代後期に流行したようで、だいたい6〜7世紀のものです。それが康永4年(1345)、約700年ぶりに再利用されたということです。
石棺の中で眠っておられた人はびっくりしたでしょう。

大日寺キリシタン地蔵

次は大日寺です。
創建は1000年以上前という歴史のあるお寺です。本堂は文政4年(1821)の建立です。
第一次世界大戦で青野ヶ原の捕虜収容所に収容されたオーストリア・ハンガリー兵、ドイツ兵が大日寺を訪問したことがあるようです。

ここに6体の石仏があります。
一番左の石仏は、家形石棺の蓋石に阿弥陀如来像を彫ったものです。
石棺の蓋は彫刻するのに便利だったのでしょうね。

真ん中の背の高いお地蔵様がキリシタン地蔵(背面十字架地蔵)です。

背中にははっきりと十字架が彫られています。
このように背中に十字架の文様を刻む石仏は、加西市域に特有のもので、加西異形石仏研究会の調査では享保10年(1725年)頃、「大日講」の造としてキリシタン信仰を託したものと推察されています。

江戸時代のキリシタン信者は長崎とか、遠いところの話だと思っていました。
こんなに近いところにキリシタン信仰があったというのは驚きです。