和泉式部の墓、小式部内侍の供養塔

和泉式部の墓が加古川野口に、娘の小式部内侍の供養塔が明石にあるというので見に行きました。

和泉式部は平安時代の歌人。藤原道長から「浮かれ女」と言われるような、恋多き女性でした。
父は大江雅致(漢学の素養が深い大江家の出身)、母は越中守平良泰衡の娘で受領階級の人でした。橘道貞と結婚。夫が和泉国国主に任じられ、和泉国に行きます。和泉式部の「和泉」はここからつけられました。橘道貞とは離婚しましたが、橘道貞との間に女の子を出産。小式部内侍といい、やはり歌人となりました。

和泉式部の墓

教信寺の近くにある宝篋印塔が和泉式部の墓といいます。

江戸時代中期の俳諧師・椎本才麿が書いた紀行文「椎の葉」に、この宝篋印塔が出てくるそうです。
元禄5年(1692)、播磨の旅に出た才麿は地元の人から和泉式部の墓であることを教えられます。こんなとこに和泉式部の墓があるのはおかしいと思いますが、「峰相記」に和泉式部が書写山に詣でた話があるのを思い出し、供養塔として建てられたのではないかを考えます。

文化元年(1804)の「播州名所巡覧図絵」には、和泉式部が娘の小式部内侍を尋ねてここを訪れ、書写山に登ったと書かれているようです。

江戸時代にはこの宝篋印塔が和泉式部の墓だという伝承ができていたのですね。

宝篋印塔

説明看板には、この宝篋印塔は南北朝〜室町時代(14〜15世紀)の作と書かれているので、平安時代の和泉式部とは時代が合わいません。
ちょっと残念。

小式部内侍の供養塔

小式部内侍の供養塔という五輪塔が明石市魚住にあります。

案内説明板には「和泉式部は、娘小式部内侍が早世した後「小式部祈りの松」を一条院の庭から長坂寺に移し、僧 寂心が塔をたてた」と書かれています。

「小式部祈りの松」については、次のような話があります。

平安時代、一条天皇の頃、皇居の庭にあった松が枯れかけます。天皇が大切にしてた松でした。松が生き返る歌を作ることを命じられた小式部内侍が歌を詠みます。

 ことはりや かれてはいかに 姫こまつ 千代をば君に ゆずるとおもへば

不思議なことに、歌の力で松の木は生き返ります。

小式部内侍も母と同じように恋多き女流歌人として活躍します。
しかし、万寿2年、藤原公成の子を出産した際に亡くなります。

わが娘の死を悲しむ和泉式部。歌を詠みます。

 とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさるららん

   訳)亡くなった娘は、この世に自分の子供たちと母親の私を残して、
     いったい誰(だれ)のことをしみじみと思い出しているのだろう。
     きっと我が子を思う気持ちの方がまさっているのだろう。
     私もあの子との死別がつらくて、ひたすら思っているのだから。
     weblio古語辞典より

小式部に先立たれた式部は、娘の菩提を弔うため播磨国・書写山の性空上人を尋ねて供養した。
その帰り、性空上人の弟子であった明石・長幡寺の寂心上人を尋ね、法華経を詠みます。
一心不乱にお経を詠むと、立ち上る香の煙の中に小式部内侍が現れます。
都に帰った和泉式部は、このことを天皇に申し上げ、小式部内侍ゆかりの松を譲り受けて、長幡寺の近くに植えました。
寂心上人も追善供養のために松のそばに五輪塔を建てました。

和泉式部の娘への愛が感じられる物語です。