志方城跡・宝積山観音寺

黒田官兵衛の妻 光(てる)の実家であった志方城跡を訪ねました。

官兵衛のトレードマークである合子形兜は義理の父 櫛橋伊定(くしはしこれさだ)から譲り受けたものです。
婿の官兵衛に兜をあげたというのは、娘の夫に期待したものがあったのだろうと思いました。

織田の播州攻めのとき、黒田官兵衛は秀吉(織田)の味方になりました。
ところが櫛橋家は三木・別所氏に味方し、織田家に反旗を翻したため、官兵衛と敵対関係になってしまいました。 

三木の別所氏が敵となり、播州攻めの司令官秀吉がピンチに陥ったとき、信長は息子の信忠を大将として、3万の軍を送り込みました。その軍には次男の信雄、三男の信孝、滝川一益、明智光秀、荒木村重というオールスターが揃っていました。

天正六年(1578)、最初に神吉城が攻め落とされ、志方城は滝川一益ら7千の兵に包囲されます。
対する志方城は千人の兵。20日間も抵抗しましたが、最期は降伏したという話が残っています。

城主(官兵衛の義父)の櫛橋伊定は討ち死にしたという話もあるし、城から逃げたという話もあります。
この時、秀吉についていた官兵衛は違う戦場にいて櫛橋家を攻めずにすんだようです。

現在、本丸の跡は観音寺というお寺になっていて、城らしいものはありません。

明応元年(1492)櫛橋則伊によって志方城が築かれる。
永禄十年(1567)黒田官兵衛と光が結婚。翌年、黒田長政が生まれる。
天正六年(1578)櫛橋家は三木・別所氏に味方したため、羽柴秀吉に攻められて落城した。
天正十五年(1587)城主の墓碑を守るため城の本丸跡に観音寺が建立された。

志方城は今の観音寺のところを本丸、隣の小学校のところが二の丸、西の丸があり、かなりの規模の城だったようです。

黒田官兵衛と光は一夫一妻を守りました。
当時、武将は自分の家系を絶やさないようにするため側室を持つのが当たり前であったから、一夫一妻というのは珍しい。

光(てる)は黒田家内で「才徳兼備」とたたえられていたとあります。
司馬遼太郎の播磨灘物語では官兵衛よりずっと背が高い 女性と書かれています。
ステキな女性だったんだろうと思いました。