来迎寺(築島寺)は、経ヶ島を築く工事を成功させるために、平清盛が旅人たちを人柱にしようとしたときに、身代わりになった17歳の少年 松王丸を弔うために創建されたと伝えられるお寺です。
庭には松王小児入海之碑、妓王妓女の塔が並んでいます。
松王丸の入海には次のような話があります。
- 平清盛は宋との貿易を拡大するために、大輪田泊の波浪を防ぐ島(経ヶ島)を築こうとした。
- しかし、潮流が早く埋め立てた土砂が流されてしまう。
- 陰陽師の安倍秦氏に原因を占わせたところ「30人の人柱と一切経を書写した石を沈めると成 就するであろう」と託宣があった。
- 清盛は関所を設け、人柱にする旅人を捕えさせる。
つかまえられた人たちや家族の泣き声が、和田の松原にひびきわたった。 - このとき、清盛の侍童で讃岐の武将の子 松王丸 十七歳が「人柱のことは罪が深い。 わたしひとりを身代りに沈めて下さい」と申し出た。
- 応保元年(1161)7月13日、石の櫃(ひつ)に入れられ、白馬の背に乗せられて港へ運ばれた松王丸。千人の僧侶の読経がひびく中、海の中へとしずんでいった。
人々は涙を流しながら、お経を書き写した大小さまざまの石を海へ投げ入れた。 - こうして、築島は完成し、経ヶ島と呼ばれた。
陰陽師に占わせたとか、人柱とか。清盛の時代はまだまだ呪術的なことが残っていたことが伺えます。
「妓王 妓女の塔」というのもあります。
妓王と妓女は白拍子の姉妹。清盛の寵愛を得たが、二人に代わり仏御前が愛されるようになり、清盛から追い出される。無常を感じた二人は母 刀自とともに嵯峨往生院(祇王寺)で仏門に入ました。その後、現世の無常を感じた仏御前も加わりともに暮らしました。
平家が壇の浦で滅んだ後、平家ゆかりの八棟寺(来迎寺の末寺)で一門の菩提を弔ったといいます。
このあたりは兵庫津で築島という地名も残っています。
来迎寺のすぐそばに古代大輪田泊の石椋があります。昭和27年(1952)の新川運河工事の際に発見された20数個の巨石の一つ。平清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていましたが、その後の調査で、奈良時代から平安時代にかけての建物跡が見つかり、古代大輪田泊の石椋(防波堤)の石材と推定されました。また、最近は江戸時代の絵図と照らし合わせて、入江の護岸施設で使われた石椋の可能性も考えられているそうです。
太政大臣を辞任した清盛は福原に居を構え、大輪田泊を拠点に外交と貿易に乗り出します。当時、外国船が瀬戸内海を通航することは認められておらず、中国の宋の商人との貿易は大宰府が担当していました。清盛は慣習を打ち破り嘉応2年(1170)、宋船を福原に入港させます。しかも、後白河法皇を福原に招いて宋人と直接対面させました。
先見の明があり、タブーを恐れず行動できた優れたリーダーだったと思います。
もし、清盛が長生きしていれば源氏の世にならなかったかもしれないと思いました。