兵庫津ミュージアム

神戸市兵庫区にある「兵庫津ミュージアム」は、兵庫県初代県庁を復元した「初代県庁館」と兵庫の歴史を展示する「ひょうごはじまり館」の2つの施設で構成される博物館です。

兵庫津ミュージアムのパンフレットに「兵庫津」の説明があります。

兵庫津は大輪田泊と呼ばれた古代から、 瀬戸内海の重要な港でした。奈良時代には行基が修築し、平安時代には平清盛が日宋貿易を行い、鎌倉時代には一遍上人をはじめ多くの高僧が訪れ、室町時代には将軍足利義満が日明貿易の拠点とするなど、千年以上の長い歴史を持ちます。
戦国時代、織田信長の家臣池田恒興によって兵庫城が築かれ、江戸時代には尼崎藩領後に幕府領となりました。町の中を西国街道が通り、海陸交通の接点を担う都市として約2万人の人々が暮らし、賑わいました。幕末には開港場となり、その重要性から1868年にこの地を中心に兵庫県が誕生しました。この兵庫津には、長い歴史を感じさせる地域資源が今なお多く残されています。

兵庫津ミュージアムのパンフレットより

兵庫県が「兵庫」と呼ばれるようになったのは、兵庫津があったからでした。

初代県庁館

初代県庁館は兵庫県最初の県庁になった大阪奉行所兵庫勤番所を復元したものです。
兵庫県最初の県庁ができるまで、約300年の歴史がありました。

  1. 天正6年(1578)、摂津を治めていた荒木村重が織田信長に謀反。
  2. 天正8年(1580)、花隈城落城。荒木村重は毛利を頼って逃亡。
  3. 天正9年(1581)、池田恒興、兵庫津に兵庫城を築く。
  4. 天正11年(1583)、兵庫津は豊臣秀吉の直轄領となる。
  5. 元和元年(1615)、大阪冬の陣、夏の陣で大阪城落城。
    兵庫津は尼崎藩に編入され、兵庫城は尼崎藩の陣屋となる。
  6. 明和6年(1769)、兵庫津は幕府の天領となり、陣屋は大阪奉行所の兵庫勤番所となる。
  7. 慶応3年(1867)11月、大政奉還。政権は朝廷側に移る。
  8. 慶応4年(1868)1月、神戸事件勃発。兵庫勤番所は兵庫裁判所となる。
  9. 慶応4年(1868)5月、摂津・播磨の幕府領・旗本領があわさって兵庫県が発足する。
    兵庫裁判所は兵庫県庁となる。
    初代県知事は伊藤博文。神戸事件解決の功績が認められた。このとき伊藤博文は27歳。これをきっかけに出世していき、44歳で初代総理大臣となる。
初代県庁館
知事執務室

知事執務室は8畳ぐらいの畳敷きの床に絨毯を広げ、洋風の机、椅子をおいたものでした。
県知事になった伊藤博文はここで執務していたのでしょう。

中央が伊藤博文

執務室の隣にはトイレ、風呂が設置されており、特別な人と合う前に、汗を流したりしたそうです。

風呂

勤番所では3人の同心が家族と生活をしながら仕事をしていたそうです。犯罪人を収容した牢屋もありました。

同心屋敷
仮牢

ひょうごはじまり館

兵庫はじまり館はプロジェクションマッピングなどを使って、古代、中世、近世、現代に至る兵庫の歴史が紹介され、楽しい博物館になっています。

神戸が舞台となった戦いとして、「一ノ谷の戦い」と「湊川の戦い」があります。源氏と平家、足利軍と朝廷軍の配置などがよく分かる展示です。

一ノ谷の戦い
湊川の戦い

兵庫津といえば、経ヶ島を築いた平清盛の日宋貿易を考えるのですが、足利義満の日明貿易でも大きな役割を果たしたようです。
明の大使の出迎えや、見送りのために、足利義満はしょっちゅう兵庫津に来ています。

義満さん、兵庫へやってきた!

江戸時代になると町人が活躍します。
工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛が登場します。展示された北前船の写真を見て、大きさに驚きました。この船で択捉までいってたのですね。

工楽松右衛門(左)と高田屋嘉兵衛(右)
北前船

最後に、神戸事件が詳しく説明されています。
神戸事件は備前藩と外国兵との小競り合いが大問題となった事件で、発足したての新政府にとって初めての外交となりました。

事件は備前藩士・瀧善三郎の切腹で収束しました。事件の経過を考えると、瀧には落ち度はなく、本来なら切腹する必要はなかったと考えられます。
しかし、この事件によって新政府は攘夷をやめ、本当の開国が実現しました。

瀧善三郎の切腹

神戸事件はあまり知られていません。しかし日本の進み方に大きな影響を与えた事件であり、犠牲となった瀧善三郎はもっと称賛されるべきと感じます。
しかし、そういうことも学べる兵庫津ミュージアムは楽しい博物館でした。