山本勘助のふるさと・牛久保

JR牛久保駅

山本勘助のふるさと・牛久保。
JR飯田線で始点の豊橋から約10分。豊川稲荷がある豊川駅の一つ手前です。

今川義元公墓所・大聖寺

牛久保駅から500mほど東に行ったところにある大聖寺。
ここが今川義元公の墓所です。
ただし、義元公は桶狭間で首をとられたので、胴塚ということです。

今川義元公胴塚

永禄3年(1560)、今川義元公が桶狭間の戦いで討死した際。家臣が首を取られた義元の胴体を背負ってこの地まで逃れ、大聖寺に葬った。
3年後の永禄6年(1563)、嫡子の今川氏真は大聖寺で父義元の三回忌が営み、父の位牌所として寺領を安堵した。

説明看板を要約

桶狭間から牛久保までの距離は約50km。首のない義元公の遺体を運ぶのは大変だったでしょうね。

義元公の胴塚の左側に「一色刑部の墓」があります。
説明板を読むと次のことが書かれています。

  • この墓は室町時代、足利氏の一族だった一色刑部少輔時家の墓である。
  • 永享10年(1438)宝飯郡長山村に築城して一色城と称した。
  • ここの窪地に大牛が横臥していた因縁から、牛頭山大聖寺を城廓内に建て、牛頭天王を祀った。
  • 文明9年(1477)、時家は家臣の波多野全慶に殺された。
  • その16年後、明応2年(1493)、牧野古伯(成時)は全慶を討ち、一色城の城主となる。
  • 永正2年(1505)、古伯は吉田城(豊橋市)を築いて豊橋へ出て、次男成勝を瀬木城より呼んで城主とした。この時点から牛窪城とよばれるようになった。

一色時家は家臣の波多野全慶に殺され、波多野全慶は牧野古伯に殺されるという、まさに戦国時代、下剋上の戦いが繰り広げられています。
Wikipediaで調べると、ここ東三河では、応仁の乱も絡んで非常に混乱した状態だったようです。

一色刑部の墓

牛久保城跡

牛久保城跡はJR飯田線のすぐそばにあります。
「一色刑部の墓」の説明板では、一色刑部時家は城郭内に大聖寺を建設したとなっているので、義元公の遺体は牛久保城内に持ち込まれ、そこの大聖寺に葬られたということになるのだと思います。
桶狭間の翌年、永禄4年(1561)には松平元康(徳川家康)が今川家に属していた牛久保城を攻撃しています(牛久保城の戦い)。今川氏の城を攻めたということで、家康が今川氏から離反したことがわかります。

牛久保城
牛久保城跡の碑

当時の城主は牧野成定でした。
永禄4年の戦いでは家康の攻撃を退けました。
しかし、抵抗を続けていた成定公も永禄9年(1566)には今川を離れ、松平氏に臣従します。
成定公は同年に病死しますが、牧野家は家康とともに関東に移ります。そして、孫の忠成は長岡藩主となり、幕末まで牧野氏が長岡藩主を務めました。

牛久保には牧野成定公の廟所が残されています。
今川氏から松平氏(徳川)へと、うまくチェンジ(今だと転職?)したことが、その後の牧野氏の繁栄をもたらしました。

牧野成定公廟所

牛久保八幡社・若葉祭(うなごうじ祭り)

牛久保八幡社の創建は奈良時代で、仁徳天皇と応神天皇がおまつりされています。
4月に「うなごうじ祭り」という変わった祭りが開催されます。

牛久保八幡社

神社の説明板に牧野氏と八幡社、若葉祭りの関係が説明されていました。

一色城主牧野成時(古白)が、ある年の四月八日に、この若宮殿に参詣した時、駿河の領主今川 氏親より馬見塚(現豊橋市)に築城を命じられました。喜んだ古白は、社前の柏の葉で御神酒を献じて家臣と共に祝い、家紋を三ツ柏に改めました。このとき、境内の若葉が照り映えているのを見て詠んだ古白の旬「きのうけふ(今日)若葉なりしか杉の森」にちなみ、この祭を「若葉祭」と呼ぶようになりました。
古白はじめ、代々の城主は、若葉祭の時、領民の主だった者を城中に招いて酒をふるまいました。酒に酔った領民たちは帰る途中ごろごろと路上に寝ころんでしまいました。
この様子を今に伝えているのが、祭の神幸行列の最後尾を受持つ「やんよう神」の一行です。路上に寝ころぶ様子が「うじむし」に似ているところから、この祭は「うなごうじ祭」とも呼ばれています。

八幡社の説明板より

「うじむし」という言葉が祭りには似つかわしくない感じです。

祭の様子 寝ている人がいる

牧野成定公廟所の隣りにある天王社は若葉祭の神輿行列の御旅所になっています。

天王社

牧野氏が祭りに大きく関係しています。牛久保にとって牧野氏の存在は大きかったようです。

山本勘助供養塔

武田信玄の軍師・山本勘助の墓が長谷寺にあります。
山本勘助については「甲陽軍鑑」以外の資料がはっきりしないため、謎が多い人物です。

長谷寺
山本勘助の養父屋敷跡

長谷寺の説明板による山本勘助の生い立ち、人生は次のとおりです。

  • 山本勘助は明応9年(1500)8月15日八名郡賀茂村(現豊橋市賀茂町)に山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源助と名乗っていた。
  • 15歳で牛窪(牛久保町)の牧野家家臣・大林勘左衛門貞次の養子となり、名を大林勘助貞幸と改めた。
  • 26歳で武者修行のために諸国を歴遊するまで、牛久保で過ごた。
  • 諸国を歴遊し武名を高めて、35歳の冬に大林家に帰ってきたところ、勘左衛門に実子が生まれていたため、養子縁組を解き、山本姓に戻った。
  • その後、関東の地を歴遊し、45歳で甲斐の武田信玄に仕え、幾多の戦いで名軍師と謳われた。
  • 永禄4年(1561)9月10日、川中島の合戦で討死した。
  • 勘助は長谷寺の念宗和尚と親しく、武田信玄に仕えたときには、入道して道鬼斎と称し、遺髪を和尚に託していた。
  • 川中島の合戦での勘助の死を知った和尚はこれを悼み、遺髪を納めた五輪塔を建立した。
  • 長谷寺には勘助の守本尊「摩利支天尊像」が安置されている

山本勘助が戦死したのは第4回川中島の戦いです。川中島の戦いは5回行われ、勘助が死んだ第4次の戦いが最も激戦だったと言われています。
このとき勘助は妻女山に陣取った上杉軍を挟み撃ちにするべく、「啄木鳥の計」を提案します。ところが、上杉謙信はこの策を見破り、先に妻女山を降り、手薄になった信玄本隊を攻撃。この戦いの最中、勘助は討ち死。69歳だったそうです。

山本勘助の墓・供養塔

牛久保は山本勘助だけではなく、今川義元の墓もあるという、ちょっと驚きの地域でした。