江戸時代、濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川には支流が383もあり、河川氾濫などの水害が頻発し、この三川の治水は大きな課題となっていました。

宝暦3年(1753)、江戸幕府は治水工事を薩摩藩に命じます。
当時、財政が逼迫していた薩摩藩にとって、この命令は嫌がらせに近い過酷なものでしたが、家老・平田靫負(ひらたゆきえ)を総奉行として、1000名もの藩士を派遣しました。
事前の予想通り工事は難航を極め、88名もの死者を出した末、宝暦5年(1755年)5月、総延長30里(約120km)に及ぶ堤防を完成させました。しかし、工事完成の翌日、平田靫負は多大な犠牲と莫大な工事費用の責任を背負い、自刃しました。
この工事は「宝暦治水」、工事にあたった薩摩藩士は「薩摩義士」と呼ばれています。治水工事の舞台となった岐阜県海津市には、平田靫負らをお祀りした治水神社が創建されました。

また、鹿児島市内にも薩摩義士を弔う「薩摩義士碑」が、大正9年(1920年)に建立されています。

平田靫負の屋敷跡も「平田公園」として整備されており、昭和29年(1954年)の薩摩義士200年祭を機に県の史跡に指定され、翌年には平田靫負像が建てられました。現在も毎年、靫負の命日である5月25日には、薩摩義士頌徳慰霊祭が行われています。

難工事のために犠牲者が出たり、工事費が予算を超過したりしたことは、平田靫負だけの責任ではないと思いますが、当時の責任の取り方は、現代から見ると非常に厳しいものです。

その後、明治時代には外国人技師の指導による分流工事が進められましたが、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風では再び甚大な被害を受けました。
これを教訓に、国は災害対策基本法の制定や高潮堤防の強化など、防災体制を抜本的に強化しました。
薩摩義士たちが命懸けで挑んだ治水の精神は、時代を超えて現在の強固な防災体制の礎となっています。













