石見銀山

石見銀山・龍源寺間歩を見学しました。

昔、このあたりは銀山で栄えていましたが、銀が採れなくなり、今は過疎になりかけています。
地元の人がガイドをしてくれて、間歩までの間、途中の寺院跡などの歴史について説明してくれました。

石見銀山の歴史

延慶2年(1309)石見銀山が発見されたと伝えられます。
南北朝の建武年間(1334〜1338)足利直冬、露頭銀を採りつくしたとされます。
大永7年(1527)博多の商人神屋寿禎(かみやじゅてい)が銀山開発を始める。寿禎は日明貿易の輸出品だった銅を買いに石見にきていて、銀山を知ったという。この頃は、大内氏が銀山を支配していました。
天文2年(1533)に銀の精錬に灰吹法が導入され、銀の生産量が増えます。
支配権は大内氏 vs 尼子氏、尼子氏 vs 毛利氏 の結果、毛利氏が勝利します。争いに勝った毛利氏は中国地方の覇者とまりました。
関ヶ原の戦いの後、銀山は徳川氏が支配し、幕府直轄の天領となりました。
天領の初代奉行は大久保長安。長安の経営により銀の産出量は大幅に増えます。
銀の産出量は初代奉行・大久保長安、二代目奉行・竹村丹後の頃が最大だったようです。
当時、銀山の人口は20万人。驚くべき数の人が集まっていました。
慶応2年(1866)長州軍が銀山を占領。徳川の支配が終わります。当時、銀の生産量は減少し、休山に近い状態でした。
明治維新後、維新政府は石見銀山を民間に払い下げます。
明治19年(1886)藤田伝三郎の藤田組が再開発を試み、銅の生産が主力となります。
大正12年(1923)経営不振により休山。
昭和18年(1943)水害で坑道が水没するなどの被害により閉山。
平成19年(2007)世界文化遺産に登録されました。

江戸時代の初期が最盛期だったということは意外でした。もっと長い期間、銀が採れていたと思っていました。

龍源寺間歩

龍源寺間歩まで歩いて約2.5km。往復すると5㎞になります。

間歩とは坑道のことです。。
龍源寺間歩の前にある説明の看板には次のように書かれていました。

江戸中期以後に開発された「御直山(おじきやま)と呼ばれた代官所直営の操業地にあった坑道で、銀山を代表する「五か山」の一つ。
坑口の横に番所を設け、四ツ留と呼ばれる坑木を組み合わせて坑口となっている。
坑道は、ほぼ水平に約 600 m 掘り進められており、高さ 1.6~2 m、幅 0.9~1.5 m。
内部の岩質は角礫凝灰岩、坑道の壁面や天井にはのみの跡が残り、鉱脈を追って掘り進んだ小さな坑道や上下に延びる斜坑を見ることができる。
坑道は入口から水平に約 630 m 続いており、現在 157 m の区間が公開されている。

間歩の入り口の石碑
間歩の入り口

間歩の中は薄暗いです。証明があるので歩くのは問題ないですが、江戸時代ここを掘っていた鉱夫たちは大変だったと思います。

ガイドさんが
「今で言う福利厚生は良く、坑夫は手厚くされていた。
しかし、12歳ぐらいからのみで掘る練習を始め、15歳で元服し坑道に入る。
坑道内は粉塵で空気が悪く胸をやられる。
30歳まで生きられれば長生きしたとされていた。」
という話をしてくれました。

坑夫として働いて、15年で死んでしまうことがわかっていたら、毎日どういう思いでいたのでしょうか。哀れな気持ちになりました。

最後にガイドさんが詩吟を披露してくれました。

世界遺産に選ばれた誇りある歴史の地。
ここを本当に愛してることが伝わってきました。手作り感あふれる観光地でした。