ジョセフ・ヒコ

播磨町に残るジョセフ・ヒコの史跡を訪ねました。

※ジョセフ・ヒコ
本名 浜田彦蔵(幼名:彦太郎)。兵庫県播磨町古宮の出身。
嘉永三年(1850)、乗っていた船が遭難。アメリカ船に救助されアメリカに渡る。
アメリカ国籍をとった初めての日本人となる。
洗礼名はジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)
ピアーズ、ブキャナン、リンカーンの3人の大統領と面会する。
アメリカ人として日本に帰国。日本で初めて新聞を発行する。

播磨町公民館の像

ジョセフ・ヒコの像が播磨町役場に建てられています。
像の横にジョセフ・ヒコの略歴が記されています。

生家跡

何も残っておらず、播磨町教育委員会が建てた説明板が立てられていました。

ジョセフ・ヒコ生誕の地を示す石碑

播磨の人工島に渡る橋の手前(播磨町浜田海岸)に石碑があります。

蓮花寺

明治三年(1870)、ふる里に帰ってきたジョセフ・ヒコが両親のために建てたお墓が残っています。
墓の裏面に英語で ”ERECTED MEMORY PARENTS & FAMILY JOSEPH HECO DECEMBER 1870” と刻まれ、横文字の墓と呼ばれています。

蓮花寺入り口
ジョセフ・ヒコが建てた墓
英語が刻まれています

播磨町郷土資料館

播磨町郷土資料館にはヒコに関わる資料が多く展示されています。

ヒコ13歳のとき、江戸見物から帰る途中、乗っていた栄力丸が遠州灘で遭難しました。
52日間漂流の末、アメリカ船に救助されサンフランシスコに上陸します。
ヒコも入れて17人の乗組員全員が無事でした。

救助された全員がアメリカの新聞に載りました。

ヒコと一緒に遭難した船乗りたち
船乗りたちの出身地 色んな所から来ている

サンフランシスコでは、一人ひとり写真を撮られていました。
彦蔵 / ジョセフ・ヒコ(左下)、亀蔵(右上)、清太郎(左上)
清太郎は遭難から4年後の1854年に帰国。
姫路藩の命で洋式帆船、速鳥丸、神護丸をつくりました。その後、士分に取り立てられ本庄善次郎と名乗ります。
速鳥丸、神譲丸の建造には清太郎以外にも、一緒に遭難した源次郎、甚八、喜代蔵も加わっていました。

元治元年(1864)、日本で初めての新聞を発行します。
最初は新聞誌という名でしたが、翌年に海外新聞と名付けられました。
約2年間で26号まで発刊されました。

ジョセフ・ヒコの略歴

天保八年(1837)播磨町古宮に生まれる。
嘉永三年(1850)13歳
 
江戸からの帰り、遠州灘で遭難。
漂流の後、アメリカ船に救助される
嘉永四年(1851)14歳サンフランシスコに到着。
嘉永六年(1853)16歳ピアーズ大統領と面会する。
安政元年(1854)17歳
 
 
洗礼を受けジョセフの名をつける。
ヒコをHecoとつけたのはHicoだとハイコと発音されるからとか。
ローマ字にとらわれない、実戦的な英語である。
安政四年(1857)20歳ブキャナン大統領と面会する。
安政五年(1858)21歳アメリカに帰化。アメリカ国籍を得た最初の日本人となる。
安政六年(1859)22歳日本に帰国。
文久元年(1861)24歳再渡米。
文久二年(1862)25歳
 
南北戦争中のリンカーン大統領と面会。
日本に帰国。
元治元年(1864)27歳日本初の新聞「海外新聞」を発行する。
明治元年(1868)31歳播磨古宮(兵庫県加古郡播磨町)に帰る。
明治四年(1871)34歳両親の墓を建てる。
明治五年(1872)35歳大蔵省に出仕。
明治八年(1875)38歳神戸で事業を行う。
明治二一年(1888)51歳東京に移る。
明治三十年(1897)60歳死去。青山の外人墓地に埋葬される。

ジョセフ・ヒコは若いときに大統領に会っています。日本との開国をめぐりアメリカの方にもいろいろな思惑があったにせよ、彦太郎少年は賢くて、見どころのある少年だったのでしょう。だからこそ、アメリカ人も彦太郎に教育やチャンスを与えたと思いました。