室津民俗館・室津海駅館

室津にある民俗館、海駅館を見学しました。
いずれも室津の豪商の遺構を利用している。
江戸時代、参勤交代で室津に入港する大名の数は文化年間(1804〜1817)には70藩にもなったようだ。
当時の室津は武士が支配するのではなく、「銀元制度」と呼ばれる有力な町衆による会議によって自治されていました。
室津賀茂神社は江戸将軍家から社領安堵の朱印状を下されています。
賀茂神社の社領、町人衆の実力で自由な自治を行い、本陣(旅館)、遊ぶところを完備し、旅をするのに便利になり、大名たちも利用しやすかったのだと思います。

それぞれ、お気に入りの本陣(旅館)があったのかな。
肥後熊本藩(細川家)が豊後鶴崎に入港する様子を描いた寛政十年(1798)の絵馬に大規模な船団が入港している様子が描かれています。

室津に入港した大名家
細川侯参勤交代鶴崎入港之図

室津民俗館

民俗館

民俗館のパンフレットには以下のことが記されていました。


たつの市立室津民俗館は、屋号を「魚屋」といい、江戸時代には苗字帯刀(豊野家)を許され、姫路藩の御用を務めた豪商の遺構。建物に対面する海側には惣会所や高札場をはじめ、本陣肥後屋や筑前屋が軒を連ねていた。

一本釣和船の模型
船霊さん(ふなだま)
残された文書
昔の室津港

昔の室津港の写真を見ると、大名の大船団が入ってきた割には狭いと思いました。

黒田官兵衛の妹が婚礼の日に自害したという八朔のひな祭りが飾られていました。

八朔のひな祭り

永禄九年(1566)龍野城主
赤松政秀が室山城を夜襲。その日は浦上政宗の子、宗影の婚礼の日だった。城中では祝の酒盛りのため戦えず政宗、宗影は討ち死に。
婚礼を挙げたばかりの花嫁(志織姫 黒田官兵衛の妹)は小長刀をとって戦ったが自害された。

室山合戦が正月11日だったので、室津では3月3日にはひな祭りをせず、8月1日(八朔の日)にするようになったということです。

播州室明神神事棹歌之遊女行列図

酒井抱一が描いた」播州室明神神事棹歌之遊女行列図」が飾られています。
酒井抱一は姫路酒井家藩主 酒井忠以公の弟です。江戸で生まれ、姫路には一度しか帰っていません。
酒井家を継がず、文化の道に生き、江戸琳派を打ち立てました。

室津海駅館

海駅館のパンフレットには以下のことが記されています。


たつの市立海駅館は近世から近代にかけて廻船問屋として活躍した豪商「嶋屋」の遺構です。建物は、嶋屋(三木)半四郎が江戸後期に建てたもので、1873年(明治6)に一部増築。

嶋屋は運送業と商品販売を手掛け、北海道まで行ってます。北海道へは太平洋側ではなく日本海側を渡航しています。北海道で取れたニシンをこちらで売りさばきました。

にしん

大名の料理、朝鮮通信使の料理が展示されています。
そんなに美味しそうな感じはしませんでした。

本陣薩摩屋の大名の献立

室津には朝鮮通信使も寄港しました。
通信使は江戸時代に12回来日した。
人数は500人前後というから、大行列です。

朝鮮通信使の行列

天和二年(1682)の第七回目通信使が来たときに、姫路藩主 本多忠国が出した饗応料理の模型も展示されています。

七五三本膳
二の膳
三の膳
引替本膳
二の膳
三の膳
焼き物、香の物など
吸い物など
お菓子
お菓子

これも、そんなにおいしそうではない。現代のほうが美味しいものを食べていると思う。

二階は海と反対側の部屋の天井が曲面となっている特徴ある形をしています。



二階の窓から室津港が見えます。

昔も、この窓からたくさんの船が見えたのでしょう。