竹中半兵衛の墓

竹中半兵衛の墓は兵庫県三木市にあります。

竹中半兵衛は天正六年から八年(1578〜1580)に行われた三木城攻めの最中、天正七年(1579)に亡くなりました。36歳でした。
臨終の際、秀吉を将来の天下人と予言して息を引き取ったといいます。
秀吉は「お先まっくら」と人前もはばからず遺体に取りすがったと伝えられています。

半兵衛の墓
花が供えられていました

竹中半兵衛重治公墓詩という碑がありました。
詩は天保年間(1831〜1845)に山田翠雨という江戸時代の儒学者が竹中半兵衛の墓に参拝したときに作られたものです。


秀吉の大軍は皆半兵衛公を慕っていた
病に冒されながら戦場に出る
猿面の如き秀吉が自ら功績を唱えているが
半兵衛公の策であったことを人は知っているだろうか
一夜にして戦場で公は消え去った
秀吉の天下統一が済まないうちに惜しいことである
土を盛り上げた一つの塚が平井山の緑の中に包まれている
天正年間の武将の鏡といえる

竹中半兵衛重治公墓詩

竹中半兵衛は岐阜の稲葉山城を乗取った話、秀吉の軍師として活躍した話、黒田官兵衛の息子を助けた話など、多くのエピソードがあります。
竹中半兵衛がいなければ秀吉は天下が取れなかったかもしれないです。
肺の病気が明らかになって、秀吉に京都で療養するように勧められても、「武士として戦場で死にたい」という侍らしさがあり、単なる頭の良い作戦家というわけではありませんでした。