神戸櫨谷・端谷城跡

神戸市西区櫨谷にある端谷城を訪問しました。

県道52号線を走っていくと、小さく「端谷城」の看板が出ています。
この看板に従って進むと、端谷城の案内看板がでています。
看板の地図によると、満福寺が端谷城跡のようです。

満福寺にはすぐに着きました。
満福寺の境内は端谷城の三の丸跡だったそうです。

端谷城の本丸へは満福寺の裏側の山道を登っていきます。
途中、大きな堀切がでてきます。端谷城は神戸市内で最も保存状態が良い城跡だそうです。
少し進む二の丸に出ます。二の丸はフラットで広い空間があります。ここだとたくさんの兵を集めることができたように思います。

堀切
二の丸

更に登っていくと本丸に出ます。本丸の高さは標高140m。
本丸には物見台もあって、淡路島まで見ることができました。

本丸跡
城の縄張り

端谷城主の衣笠氏は鎌倉時代の中頃からこの地域を治めていたようです。
室町時代には赤松氏に属していて、応仁の乱(1467〜77)で武功を上げました。

播磨守護・赤松義村が室町将軍・足利義澄の若君・亀王丸(第12代将軍・足利義晴)を奉じて端谷城に衣笠氏を頼ってきたこともあったようです。
赤松家に信頼されていたことがうかがえます。

戦国時代に入ると、衣笠氏は三木の別所氏に属し、端谷城は三木城の支城の役目を果たします。
羽柴秀吉の播磨攻めで天正8年(1580)1月17日に三木城が落城。
その後、2月25日に端谷城は落城しました。

最後の城主は衣笠範景公。
「別所記」では、織田信忠、滝川一益、丹羽長秀、佐久間盛信という織田家のスターたちに攻められ、奮戦およばず範景公は討死。とされています。

満福寺の境内には範景公の顕彰碑が建てられています。
討ち死にしたとき、歳は31歳でした。