加西・阿弥陀寺 あごなし地蔵

加西市善防の阿弥陀寺は曹洞宗のお寺です。

境内には曹洞宗の高祖 道元の像があります。
「尊いいのち たいせつに」とあります。本当にそうですね。

山門脇には腮無(あごなし)地蔵尊がおられます。
腮無地蔵の由来が石碑に刻まれています。要約すると次のような物語です。

仁明天皇の御代に小野篁が隠岐に流された。
隠岐に流された篁の世話をする徳兵衛という郷士がいた。
徳兵衛の妻は頭痛に苦しみ、7年の間一粒も食べることができず亡くなった。
篁は不憫に思い、自ら地蔵尊を彫り「墓標にせよ」と徳兵衛に授けた。
喜んだ徳兵衛は地蔵尊を安置し堂を建てた。
地蔵尊は腮無地蔵尊と称し、特に首から上の病気に霊験があった。
明治になって、佐伯平七という人が長年歯痛で苦しんでいた。腮無地蔵に祈願したところ、全快した。霊験を分かち合おうとし、この地に腮無地蔵を安置した。

腮無地蔵由来の石碑より

調べてみると、小野篁は実在の人物でした。
平安時代の法律家、歌人、漢詩人で優れた書家という人物で、軟弱な貴族かと思ったのですが、身長6尺2寸(188cm)もあり、反骨精神にあふれ「野狂」といわれた人物でした。

篁が隠岐に流されたというのも事実でした。仁明天皇の時代、遣唐使に選ばれますが、唐への渡航に2回失敗します。そして3回目。遣唐大使の乗る第一船が浸水したため、篁の乗る第二船と取り替えさせられます。篁はこの処置に激怒。唐への渡航を拒否してしまい、さらに遣唐使・天皇を批判する書を書いてしまいます。

承和5年(838)、これが原因で篁は沖に流されます。しかし、篁の詩人、法律家としての名声のおかげで、翌承和7年(840)、篁は赦免され、京に戻ります。

あごなし地蔵の伝説は、配流地の隠岐で造られた話のようです。島根観光ナビでは次のように紹介されています。

都人の篁は、村の娘阿古那(あこな)と恋におちたが、赦免の日が来て都へ帰ることになった。別れを嘆き悲しむ阿古那のために、篁は自ら自分の身がわりにと、木像の地蔵を刻んだ。その地蔵を阿古那に与えて隠岐を離れたのである。いつしか阿古那地蔵があごなし地蔵と転訛し、さらに歯痛に効くとの信仰になっていったという。

島根観光ナビより

隠岐の島から遷座された「あごなし地蔵尊像」をお守りしているという大阪・東光院萩の寺のホームページには次のように記されています。

それによると、平安初期の参議で歌人としても名高い小野篁卿が承和5年(838)12月、隠岐の島へ流されたときに阿古という農夫が身の回りの世話をしました。ところがこの阿古は歯の病気に大層苦しんでいたので、世話になったお礼にと、篁卿は代受苦の仏である地蔵菩薩を刻んでこれを授けました。阿古が信心をこらして祈願するとたちまち病が平癒し、卿も程なく都へ召し返されたので、奇端は偏にこの地蔵尊の加護したまうところと、島民の信仰を集めました。

その後、仏像は島の伴桂寺にまつられ「阿古直し」がなまって尽には、「あごなし地蔵」と呼称されるに至ったといわれています。

仏日山吉祥林 東光院 萩の寺ホームページより

隠岐に流された小野篁を世話をした者がいたことは同じですが、そこからの話がそれぞれ違います。長い時間をかけ、話が遠くまで伝えられていくなかで、ストーリーが変わっていくことを示しており、興味深いです。