備前長船巡り

刀剣で有名な備前長船、福岡をめぐりました。
刀剣関係の史跡、博物館、軍師官兵衛の黒田家の墓所など、いろいろ見るものがありました。

備前おさふね刀剣の里

備前長船刀剣博物館
展示されている刀

備前おさふね刀剣の里には備前長船刀剣博物館、今泉俊光刀匠記念館、備前長船鍛刀場、備前長船刀剣工房、ふれあい物産館が集まっていて、刀剣の展示、作り方を見ることができます。

備前長船刀剣博物館では平安時代の刀から現代の刀までが展示されています。時代によってデザインが変わります。それぞれの時代で最高の刀剣を産み出していたのです。

教意山妙興寺

播磨国主・赤松則興の追善供養のため、その子日伝上人によって応永10年(1403)に創建されたと伝えられています。
ここには黒田官兵衛の曽祖父・黒田高政、祖父・重隆、宇喜多直家の父・興家の墓があります。
赤松則興という人物は調べましたが、よくわかりませんでした。

寛保元年(1771)建立の山門
仁王門
安栄3年(1774)改築の本堂

樹齢300年以上の大イチョウ。周囲 3.8 m、樹高 28 mの大きさです。瀬戸内市の重要文化財に指定されています。境内には官兵衛もいます。姫路の官兵衛くんとは違って、現代風の若者です。

大イチョウ
官兵衛

宇喜多興家公の墓

宇喜多興家は宇喜多直家の父です。
備前福岡史跡保存会の説明看板によると、宇喜多能家は天文3年(1534)奇襲を受け、子の興家は、当時6歳の八郎(後の直家)を連れて備後へ落ちのびる。その後、備前福岡に戻ったが天文5年(1536)この地で病死。直家公は少年時代を福岡で過したということです。

宇喜多興家公の墓

黒田墓所

黒田高政公の墓

備前福岡史跡保存会の説明板によると、黒田氏と福岡の関係が次のように述べられています。

黒田氏の祖宗清は近江国伊香郡黒田村に住んでいた。宗清公の五世の孫、高政は永正8年(1511)子の重隆らを連れて福岡に移住。高政公は大永3年(1522)にこの地で亡くなる。その翌年、重隆に嫡子職隆が誕生。多感な青少年時代を山陽道随一の繁栄を誇っていた福岡で過ごし、見聞きした多くのことは、その後の黒田家処世の知恵となったと思われる。重隆は大永5年(1525)家族を連れ播州に移住。

髙政公は黒田官兵衛の曽祖父、重隆公は祖父、職隆公が父になります。
福岡にいたのは1511年から1525年で15年ほどで、意外に短いと思いました。
播磨へ引っ越したあと、黒田家は広峯神社での薬売りから始まり、御着城の小寺氏の家臣から、秀吉の家臣になり、どんどん出世していきました。
福岡時代の黒田家は特に大きい家ではなかったようですね。

福岡一文字記念碑

福岡一文字記念碑

福岡一文字派は鎌倉時代初期の則宗を始祖として鎌倉時代に全盛期を迎えます。
銘に「一」の字を刻むものが多かったので、地名の福岡と合わせて、「福岡一文字派」と呼ばれるようになったようです。則宗は後鳥羽上皇の番鍛冶に召され、菊の紋章を彫刻することを許されます。この刀を「菊一文字」というそうです。
福岡一文字派はここを拠点にしていたそうです。

福岡の市跡

福岡は吉井川の水運に恵まれ、西国一の繁栄だったといわれています。
弘安元年(1278)時宗の祖・一遍上人が福岡に立ち寄り布教したところ280人が出家したと伝えられています。

福岡の市跡
福岡の市の壁画

一遍上人絵伝では福岡の市の賑わいが描かれています。
そして、布教する一遍に襲いかかろうとする男の物語が伝えられています。

「一遍の念仏、阿弥陀佛の話を聞いた男の妻が仏門に入るために髪を切り落とす。これを知った男は激怒し、一遍に斬りかかろうとする。そのとき、一遍の死を恐れない声を聞く。すると男の怒りは消えうせた。そして、男も髪を切り出家した。」

福岡の市を描く一遍上人絵伝

仲崎邸

明治から大正期の大地主・仲崎家の屋敷です。施主は中崎善吉郎氏。10年の歳月をかけて建てられたそうです。

仲崎邸
一階の部屋

2階は美術館のようになっていて、絵画や黒田家の資料などが展示されています。

2階に展示されている日本画
東原方僊作の日本画

地元の方が詳しく案内してくれました。
大黒柱がない、ふすまの引手、窓ガラス、お風呂の構造など、非常に細かな作り、工夫がなされていることを教えていただき、すごく楽しい訪問になりました。

伝西行法師腰掛岩

西行法師が諸国行脚をしたときに長船に立ち寄り、腰を掛けたと伝えられる岩がありました。また、歌が残されています。
 長船にかじする音の聞ゆるは いかなる人のきたひなるらん

腰掛岩
歌碑

刀匠の菩提寺・慈眼院

慈眼院は古くから長船刀工の菩提寺だったといわれているお寺です。
天平勝宝年間(749〜756)に唐から来た鑑真が諸国を巡歴したとき、長船の地を訪れ、伽藍を創建したと伝えられています。
その後、長船派の刀匠・小笠原将監長光が本尊を安置して、往生山西方寺、慈眼院と名付けられました。

山門
本堂

梵鐘は横山元之進祐定の寄進ということで、南北朝時代のものだそうです。

鐘楼
横山元之進祐定寄進の梵鐘

江戸初期の刀匠・横山上野大掾祐定の墓がありました。
横山上野大掾祐定は当時の長船刀工の代表者で最も評価が高いということです。

刀匠供養塔
横山上野大掾祐定の墓

造剣之古跡碑

高さは 5 m。刀の形をしていて、切っ先が空に向かっています。
大正14年(1925)刀匠・横山元之進祐定によって建立されたそうです。
「造剣之古跡」の字は五一五事件で暗殺された犬養木堂翁(犬養毅)の書です。

造剣之古跡碑

城の内(伝兼光屋敷跡)

南北朝時代、太刀を鍛えた褒美として足利尊氏から当時の刀匠・兼光に与えられた場所と伝えられています。
長年に渡って、刀作りが行われた場所らしく土中からカナクソと呼ばれる鉄砕が出土したそうです。
かつては城があったようですが、今では建物らしいものは何もありませんでした。

城の内(伝兼光屋敷跡)

天王社刀剣の森・靭負神社(ゆきえじんじゃ)

神社の説明板によると、「観応2年(1351)新田義貞に敗れた足利尊氏は九州に逃げる途中、備前福岡に兵を留めた。1ヶ月ほど滞在した間、尊氏は眼病を患ったが、神に祈願したところ、平癒した。」とあります。
その後、九州に渡った尊氏は多々良浜の戦いで菊池氏を破り、京に向かって進軍を開始します。

天王社刀剣の森・靭負神社への入り口
備前焼の狛犬

東上の途中、尊氏は再び長船に立ち寄ります。そして、再起がかなったことのお礼として九州・日向から持ち帰った松を寄進。
この松は「日向松」と呼ばれているそうです。
松林は「刀剣の森」の名にふさわしい雰囲気が漂っていました。

刀剣の森

ご祭神は天忍日命、御眞木入日子印恵命(崇神天皇)、天目一箇神。
尊氏の目を治したことから「眼病平癒に霊験がある」と言い伝えられており、長船の刀工も炎の色を見たり、緻密な研ぎや細工に必要な目を守るために崇敬していたそうです
拝殿横には、「目が良くなりますように」と「め」の字を書いた紙が貼られていました。

拝殿
「め」の字

備前長船は刀だけではなく、いろいろな歴史に彩られたところでした。