岡山城と後楽園

ゴールデンウイークに岡山城と後楽園を訪問しました。

岡山城

宇喜多直家が本拠地にしたことにより始まったとされる岡山。
直家の子・宇喜多秀家によって岡山城が築城されました。完成は慶長2年(1597)といわれています。岡山という丘に本丸を作り、旭川の川筋を変えて背後の守りとし、城下町を作りました。
宇喜多秀家は関ケ原の戦いで西軍の主力として戦い、敗北。八丈島に流されます。
その後を、小早川秀秋が継ぎますが秀秋の急死により、慶長7年(1602)に小早川家は改易。
慶長8年(1603)、池田家が岡山に入府。明治維新まで続きました。

岡山城は天守閣の壁が黒く塗られているため、烏城(うじょう)と呼ばれます。
この日は天守前の広場に大きなバルーンが並べられていました。
城壁の黒色と窓枠の白色がプラスチックみたいで、なんだかレゴでできているような感じがしました。

天守閣は戦争で焼けてしまい、昭和41年(1966)に再建されました。2021年から約1年半の期間をかけて令和の大改修が行われました。
中は博物館になってます。

宇喜多秀家が岡山城を築城したときには、屋根瓦などに金箔が使われていたそうです。屋根がキラキラしていたら立派に見えたでしょう。
兜もカッコイイ。

金の鯱
宇喜多秀家の甲冑

天守は不等辺五角形ということです。外から見ると石垣と一階部分に角があることがよくわかりす。こういう地盤だったから仕方がなかったでしょうが、設計した人は苦労したでしょうね。

岡山城復元模型
不等辺五角形の天守

宇喜多直家の妻・おふく、宇喜多秀家の妻・豪姫、池田光政の妻・勝姫がでてきて、それぞれの旦那の業績を自慢しあって岡山を紹介したり、いろいろな楽しい展示がありました。3人をお金持ち度で比べると、母・千姫のポケットマネーで旭川氾濫で災害を受けた岡山を立て直したという勝姫が圧勝でした。

後楽園

岡山城の次は旭川にかかる月見橋を渡って後楽園です。
たくさんの観光客が来ていました。

後楽園は岡山藩主・池田綱政によって作られた庭園です。面積は13ヘクタール。東京ドームの約3倍の広さがあり、偕楽園(水戸)、兼六園(金沢)と並ぶ日本三名園の一つです。
庭を造り始めたのが貞享4年(1687)。完成は元禄13年(1700)。14年の年月がかかっています。江戸時代は藩主や賓客しか入れませんでしたが、明治4年(1871)に「御後園」から「後楽園」に改称され、明治17年(1884)に一般開放が始まりました。

園内は広々としています。
延養亭、鶴鳴館、慈眼堂などの建物、唯心山や沢の池、花葉の池などがあり、岡山城や周りの山が借景となって、広大な庭が引き立ちます。

訪れたのが5月の連休だったので、沢の池にはこいのぼりが泳いでいました。
茶畑は築庭当時からあって、実際にここで積んだ茶を藩主が飲んでいたそうです。

沢の池で泳ぐこいのぼり
茶畑

唯心山は池田綱政の子・継政が築きました。山といっても高さ6mですが、平べったい庭にアクセントができ、上から園内全体を見渡しこともできます。
山を作ったというのは良いアイディアですね。

唯心山

 延養亭は藩主が後楽園に来た時、居間として使われたそうです。戦災で焼失し、昭和35年に復元されました。
廉池軒は後楽園を造った藩主・池田綱政がもっとも好んで使っていた建物で、戦災にあわずに残っています。

延養亭
廉池軒

慈眼堂は池田綱政が池田家と領民の繁栄を願って建立したもので、後ろにある大きな岩は、花崗岩を36個に割って運び、ここで元の姿に組み立てたそうです。大きな石を割って運んで再組立てするという発想が斬新と思いました。
ところが、さらに大きい石がありました。大立石です。こちらは花崗岩を90数個に割って運んで再組立てしたものです。
なんだか、大きな石を何としてでも運ぶ!という意思に感心します。

慈眼堂
大立石

岡山城と後楽園を訪問し、楽しい一日となりました。

向こうに岡山城が見える