瑠璃光寺・国宝の五重塔

瑠璃光寺山門

山口の瑠璃光寺におまいりしました。

大内義弘公(1356〜1400)が現在地に香積寺を建立。
その後、義弘公は応永6年(1399)に室町幕府・将軍足利義満に対し、堺で挙兵。反乱を起こす(応永の乱)が、泉州の戦いで敗死。
弟の盛見公が兄・義弘公の菩提を弔うため、香積寺に五重塔を造営を始めるも、永享3年(1431)に九州の少弐氏、大友氏との戦で討たれてしまう。
しかし、五重塔は嘉吉2年(1442)頃に完成した。
関ヶ原の戦い(1600)の後、西軍の総大将であった毛利輝元公は減封となり萩に移り、香積寺も萩に移った。そして、元禄3年(1690)、五重塔だけが残っていた香積寺の跡地に瑠璃光寺が移築された。

瑠璃光寺はその全身の香積寺から数えると600年を超える歴史を持ちますが、戦いに巻き込まれなかったので、すばらしい五重塔が残りました。
瑠璃光寺の五重塔は現存する五重塔のうちで10番目に古く、日本三名塔の一つに数えられています。(日本三名塔:奈良・法隆寺、京都府・醍醐寺と瑠璃光寺です)

おまいりした日は、ちょど雨がやんだあとで、五重塔のバックにきれいな虹がかかりました。

塔の高さは31m。
格好良く、室町時代中期におけるもっとも秀でた建造物と評されているそうです。
そして大内義弘公の菩提をともらうために建てられたこの五重塔の下に義弘公が眠っているとされています。

五重塔

また、五重塔内には阿弥陀如来像と大内義弘公の像が須弥壇に安置されています。

境内は意外とこじんまりとしていましたが、整理され、清潔な感じがしました。
お体を2箇所、横に切られた身代り地蔵(見切り地蔵)様、瑠璃光寺が当地にやってくる前に作られた石殿などがありました。

境内

身代り地蔵(見切り地蔵)様はすべての悪い因縁、病気、縁談、不幸に見切りをつけたい人々のために身代わりになってくれるというお地蔵様。今は年末。今年を忘れる、嫌なことを忘れるためにちょっとお願いをしておきました。

身代り(身切り)地蔵
石殿

本堂内部は金色で光り輝いていました。
瑠璃光寺は大内家の筆頭家老・陶弘房公の菩提寺として文明3年(1471)、仁保の地に創建されました。
大内義弘公の菩提寺・香積寺が萩に移ったため、元禄3年(1690)に現在地に移っています。

本堂

資料館では全国各地の五重塔のミニュチュアが展示されていました。
その他には大内弘世公の騎馬像、雪舟の像があります。
大内弘世公は義弘公の父親で、京に憧れ、京都盆地に似た山口を本拠にし、街づくりをしたと言われています。

大内弘世公
雪舟

雪舟は応永27年(1420)に備中で生まれ、40歳頃に山口にやってきて大内氏のもとで画業を極めたのでした。京都などで活躍したのかと思っていましたが全く違いました。
雪舟は瑠璃光寺(当時は香積寺)の五重塔を見ています。美しい五重塔を見てどんなふうに感じたでしょう。

雪舟のような天才絵師を庇護、援助した大内氏。素晴らしい文化が山口で生まれていたのだと思います。