神戸事件・滝善三郎

慶応4年1月11日、神戸事件が起こりました。
場所は神戸大丸の向かいに鎮座されている三宮神社前です。
この事件は誕生して間もない明治政府を揺るがす大事件になりました。

三宮神社
神戸事件発生の碑

※当時の情勢
慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜による大政奉還。
12月7日、兵庫(神戸)港が正式開港される。
12月9日、王政復古の大号令。幕府が廃止され、明治新政府の設立が宣言される。
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが発生。
1月6日、徳川慶喜大阪城を退去。

当時、旧幕府と新政府の戦争を予想されたため、大阪にあった各国の外交団は神戸に移動してきており、神戸港内には欧米諸国の軍艦が停泊していた。

鳥羽伏見の戦いのすぐあと、慶応4年(1868)1月11日、備前藩の藩兵が西宮に向かって神戸の街に入ってきた。備前藩に朝廷から摂津西宮警護の命令が下っていた。
この部隊は備前藩家老・日置帯刀を主将とし、金川の藩兵300名を中心とした部隊だった。

神戸事件のあらましは備前藩側から見ると次のようになります。
当時、武家諸法度で切り捨て御免の行為として固く禁じられていた、武家の行列を横切る「供割り」が事件のきっかけでした。

隊列が三宮神社の前にさしかかったとき、左側(山手)から右手(浜手)へ隊列を横切ろうとしたはじめの外国人2人は制止することができた。さらに別の一人が右から左へ通り抜けようとした。同時に左手の人家から一人の外国人が短銃手狙撃しかけたので、横切ろうとした男を槍で突いた。しかし、傷は浅かったとみえ、人家に逃げ込み裏口から浜側へ逃げようとした。これを見ていた先手の銃隊が発砲した。

この騒ぎを知った英国公使パークスの命令で、停泊中の軍艦から陸戦隊が上陸し、備前藩兵を攻撃。備前藩兵は事件の拡大を防ぐため、摩耶山麓の方面へ引き上げます。
この戦闘では備前藩兵、外国人、英仏の陸戦隊ともに死者は出なかったようです。

しかし、事件はそれでは終わりませんでした。
上陸した英仏の陸戦隊は神戸を一時占領。さらに、海上にあった日本の蒸気船5隻を抑留し、財貨を奪うという暴挙に出ます。さらに、この事件は備前藩だけの問題ではなく、日本国全体の問題として賠償などを要求しました。

発足したばかりの明治新政府には列国側(英、仏、米、プロシア、イタリア、オランダ)に対抗する術はありませんでした。
明治新政府は列国の要求を受け入れ、発砲命令を下した責任者を死罪に処することを認めます。
このとき、列国側と交渉したのは若干27歳の伊藤俊輔(のちの伊藤博文)でした。
伊藤はたまたま神戸に来ていて、交渉役に就いたようです。

兵庫大仏でも知られる神戸市兵庫区にある能福寺には一つの供養塔が建てられています。
神戸事件の責任を一身に背負い、切腹した備前藩士 瀧善三郎の供養塔です。

能福寺の滝善三郎供養塔

列国の責任者を処罰せよとの要求に抗えなかった明治政府。事件の成り行きを知っている備前藩は瀧の無実、助命を訴えますが、かないませんでした。
事件から1ヶ月後の慶応4年2月9日、伊藤や列国の検視役が見守るなか、滝善三郎は切腹します。

瀧の切腹の模様は検視に立ち会ったイギリスの外交官・ミットフォートが本国に伝え、さらに新渡戸稲造の「武士道」に引用されました。

瀧善三郎の故郷は岡山市北区御津金川です。
瀧は32歳、故郷岡山に妻子を残していました。
瀧の切腹により、息子の成太郎は藩主直参に引き立てられ、500石を賜りました。そのことに瀧は感激しています。

瀧善三郎生誕の地碑

瀧の生誕地に近い七曲神社に瀧善三郎義烈碑が建てられています。
建立は昭和15年(1940)。旧岡山藩主池田家第15代当主池田宣政公による碑文には、事件のあらましが書かれ、瀧の切腹とその武士道の見事さが讃えられています。

七曲神社
瀧善三郎義烈碑

御津町郷土歴史資料館に瀧の肖像画や家族に宛てた手紙がありました。
手紙の最後には和歌や句があり、瀧が武勇だけの武士ではなかったことがわかります。

肖像画
家族に宛てた手紙

切腹に当たって、瀧は
「外国人より無法の所業があったから、やむを得ず兵刃を加え、発砲命令を下した」
「こちらは無実であるのに責任を取って切腹するのは、王政復古で今までとは違った法で治められることになったためだ」
と言い、これは『誰かに命じられたからではなく、自分の信念で兵刃を加え、その行為に対して、新しい法に従って責任を取って切腹する』と主張しているとのこと。
この考え方にこそ瀧の武士らしさがあるのでしょう。

神戸事件により、明治政府は初めて外国と直接交渉を経験しました。そして、明治政府(朝廷)は攘夷を捨て去り、全面的に開国に進みました。
時代を大きく変えた神戸事件。
瀧のような武士がいたからこそ、日本は新たなスタートを切ることができたと言えるようです。