日蓮宗最上教の総本山・龍泉寺におまいりしました。
今を去る一千二百余年前、報恩大師が修業された霊域で、中興の開山日護聖人また最上様の霊感を得て、大師の遺蹟を顕彰し最上様の霊験を各地に伝え、本山の礎を大成した。
龍泉寺の説明板より
霊験あらたかな最上様と八大龍王様の御降臨応現鎮座の霊場で、祈祷の寺である。
ネットで調べると、以下のことがわかりました。
報恩大師
奈良時代の僧で、龍泉院の麓に位置する最上稲荷も報恩大師の開基の寺です。
最上稲荷の由緒は次のようになっています。
「天平勝宝4年(752)、報恩大師が孝謙天皇の病気平癒のため、龍王山中腹の八畳岩の岩窟に籠もり、祈願したところ21日目の早暁に最上位経王大菩薩(最上尊)を感得。そのお姿を自ら刻み祈願を続けると、天皇は快癒された」
この功績により、報恩大師の称号と備前四十八ケ寺建立の勅許を得たとされ、岡山の備前、備中の多くの寺が報恩大師により開創されたと伝えられています。
日護聖人
龍泉寺のホームページには次のようにあります。
「現在の龍泉寺は、中興開山の祖である承進院日護聖人(明治38年に88歳で没)により明治初期に再興大成されました。明治維新に職を失った多くの下級武士が、日護聖人の下に集まり、信仰と生活を共にしました」
意外と最近(といっても、明治時代ですが)の人でした。
最上様
最上位経王大菩薩のことで、人々を救うことを誓った法華経の守護神。最上とは最も上、最も優れていることで、法華経を意味する。
最上様は女神で、白いきつねにまたがったお姿をされている。
八大龍王:法華経に出てくる仏教を守護する8人の竜王。雨乞いや海難などに霊験がある。
龍泉寺
磐座信仰の霊地で、報恩大師の山岳修行の場であるとともに、雨乞いの神・水の神として龍神、農耕の神・豊作の神としてお稲荷さんを信仰する霊場。
明治22年に大渓山龍泉寺を継承し、昭和26年に日蓮宗最上教派の本山になり「最上本山 御瀧 龍泉寺」と改められた。
龍泉寺ホームページより
霊場として古い歴史を持つ神仏混交の寺院でした。
本殿ではなく拝殿で、屋根瓦が赤っぽい色をしています。瓦は兵庫県明石の瓦職人によって作られたものだそうです。
兵庫県では淡路島の瓦は有名ですが、明石の瓦は聞いたことがありません。
ところが、ネットで調べると、明石で瓦が作られた時期があったようです。
藩主松平直明の勧業政策以降、大きな発展を遂げた明石瓦は従来のいぶし瓦の需要の減少に伴い、昭和12年頃に愛知県三河地方から塩焼瓦の製法を導入し、30年代には最盛期を迎えるに至った。現在では製品の主流が陶器瓦(釉薬瓦)の高級品に移行していたが、押し寄せる波にうち勝てず、現在では粘土瓦製造事業所はなくなった。
兵庫県ホームページより
開山堂は小さな建物です。日護聖人が山にこもったときは、このようなところで信仰を深められたのでしょう。
滝行の場は周りを取り囲む岩が神秘的です。もあります。
滝は最上様、八大龍王にあやかって、”最上の滝″あるいは”龍王の滝″と呼ばれています。
境内にはゆるぎ岩や太閤腰掛岩があります。
ゆるぎ岩は大きな岩が積み重ねられています。自然にできたものでしょうか?指で大岩が動くと言われているそうですが、びくともしませでした。
太閤腰掛岩は羽柴秀吉が高松城を攻めたとき、ここまで登ってきたのでしょう。
龍王池は大きな池でした。山の上にこんなに大きな池があるとは想像できませんでした。
この大きさから、古代の人は神威を感じたのではないでしょうか。
楽々森舎人の伝説が伝えられています。
吉備津彦命の軍奉行であった楽々森舎人(ささもりとねり)は、超能力を持っていて、芦守山の山頂の岩をうがって、水を湧き出させ、地域の人々をうるおしました。湧き出た水は、山の中腹の池となりました。その後、優鉢羅龍神(うはつらりゅうじん)が芦守山に飛来し、地域の人々を護ったので、いつしか芦守山を龍王山、池は龍王池と呼ぶようになりました。
楽々森舎人は足守の豪族で桃太郎伝説の猿のモデルと言われています。
説明看板より
龍王池そのものが御神体で、八大龍王大宝塔の鳥居は龍王池の方を向いています。
現在、龍泉寺は日蓮宗最上教派の大本山ですが、この地が古代から霊地として信仰されてきたことがわかる気がしました。