津山市鶴山にある津山城は江戸初期の元和2年(1616)に完成した平山城です。
築いたのは初代津山藩主・森忠政です。
森忠政は本能寺の変で討ち死にした森蘭丸の弟です。
森家は蘭丸を始め、ほとんどが戦死しています。
父・森可成:元亀元年(1570)、浅井・朝倉との宇佐山城の戦いで戦死
長兄・森可隆:宇佐山城の戦いで戦死。
次男・森長可:天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで戦死
三男・森成利(蘭丸):天正10年(1582)、本能寺の変で戦死。
四男・森長隆(坊丸):本能寺の変で戦死。
五男・森長氏(力丸):本能寺の変で戦死。
6人兄弟で、たった一人、忠政は戦国時代を生きのびました。
でも、もしかしたら本能寺の変で兄たちと一緒に死んでいたかもしれません。
偶然の出来事で難を逃れました。
信長に仕えるために忠政(幼名・千丸)が安土城に登った時、先輩の梁田某がちょっかいを出してきたのです。こらえきれなくなった千丸はとうとう梁田の頭を扇子で叩いてしまいます。それも、なんと信長の前で。
信長は「千丸はまだ側使えはできない。母のもとに帰れ」と言ったそう。
本能寺の変のわずか3ヶ月前のことでした。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで兄・森長可が戦死すると、忠政(千丸)は15歳で森家を継いで美濃金山17万石を領します。豊臣秀吉が死ぬと徳川家康に接近。
信州川中島13万石に転封のあと、慶長8年(1603)に美作藩18万石の藩主となりました。
忠政が亡くなったのは寛永11年(1634)。桃にあたって食中毒になったのが死因と伝えられています。65歳のときでした。
その忠政が13年をかけて築いたのが津山城です。
津山城主は森家が五代続き、その後、津山松平家が九代続いて明治維新を迎えました。
森家:忠政→長継→長武→長成→衆利
松平家:宣富→浅五郎→長煕→長孝→康哉→康乂→斉孝→斉民→慶倫
津山城は平山城と言っても、姫路城などに比べると山はずっと高いと思いました。
石段が頂上の本丸まで続きます。石垣が大きく感じられました。
城は明治6年(1873)の廃城令によって取り壊され、石垣だけが残りました。
なので建物は再建された備中櫓と学問所であった鶴山館ぐらいしかありません。
鶴山館の中には津山城下町の図や森家、松平家の家系図。それとB’zの大きなポスターがありました。
B’zの稲葉浩志さんは津山出身でした。稲葉浩志さんゆかりの地をめぐる「稲葉浩志さん想い出ロード」というのがあるそうです。
あじさいが咲いている道を通って、登っていきます。
津山城は春の桜で有名ですが、藤やツツジが咲き、秋は紅葉が楽しめます。
頂上の本丸はたいへん広い空間で、天守台も石垣が立派です。ハート型の石が埋め込まれていて、デート中のカップルが写真を撮っていました。また「森侯入封満三百年記念碑」が建っています。津山にとって森家・森忠政は本当に大切なんだと思います。
この上に建てられた天守は地下1階、地上5階建てで、石垣を除いて高さ22メートルと大きなものでした。
城内の説明石碑には在りし日の写真が示されています。
この城が取り壊されずに残っていたらと思わずにいられませんでした。