豊臣秀吉の水攻めで有名な備中高松城。
天正10年(1582)4月14日、羽柴秀吉軍3万が備中高松城を包囲します。
高松城を守るのは毛利の武将・清水宗治。3000〜5000人の城兵とともに城に立てこもりました。
- 当時の状況
- 秀吉によって播磨が平定され、天正9年(1581)には吉川経家が守る鳥取城が攻略された。
- 備前の領主・宇喜多が毛利を見限り、織田に味方していた。
- 織田と毛利の最前線は備前と備中の国境となっており、毛利は足守川沿いに並ぶ「境目七城」の防衛線を引いた。
3月15日 秀吉、2万の兵を率いて、姫路城を出陣する。
3月16日 備前福岡に入る。
3月19日 沼城(岡山市)に入る。児島方面を制圧し塩飽軍を味方につける。
4月4日 岡山城に入る。
4月6日 黒田官兵衛を派遣し、清水宗治に降伏を勧める。
4月10日 黒田官兵衛、再度降伏を勧告する。
4月14日 秀吉、龍王山に本陣を置く。 境目七城を攻撃。
- 境目七城
- 宮地山城:境目七城の最も北に位置する。秀吉からの降伏勧告には投降しなかったが、冠山城落城後、宇喜多の交渉により開城した。
- 冠山城:加藤清正が忍者を使って城内に火を放ち、4月17日に落城。
- 加茂城:加茂城の家臣を寝返らせたが、反撃され、毛利から奪うことはできなかった。
- 日幡城:城主の裏切りで落城したものの、毛利方・小早川隆景の猛攻により秀吉側は城を開けて引きあげた。
- 庭瀬城:高松城と同じく沼地で、秀吉の攻撃に屈しなかった。
- 松島城:高松城から一番遠くにあり、秀吉に攻められなかった。
- 高松城:備中守護代で三村氏の家臣・石川氏が築いた城である。天正3年(1575)の備中兵乱で毛利氏によって石川氏が滅ぼされた後、清水宗治が城主となった。
高松城の背後は龍王山などの山が、前方には足守川が流れ、周囲を沼地で囲まれた難攻不落の城だった。- すべての城が陥落したわけではなかったようです。以外でした。
5月7日 秀吉、本陣を石井山に移す。
5月8日(現在の暦で6月8日)堤防建設を開始。
5月19日 堤防が完成。
堤防は長さ2.7km、高さ7m、幅は底部が24m、上部が20mという大きなものでした。
季節は梅雨。増水した足守川の水を流し込み、188haの大湖水ができ、城は孤立しました。
今でも高松城址公園の廻りは沼地のようなところですが、約12日という短期間で完成させ、目論見通り水攻めを完成させました。。
周辺の農民に、土俵ひとつあたり米一升と銭100文で買い取ると好条件で提示したため、建設が進んだそうです。
「武将感状記」によると費用は63万5040貫、米6万3504石。1貫を約12万円とすると762億円!
国立競技場の総工費は1569億円、東京ドームは350億円です。
さすがに新国立競技場は別格ですが、秀吉はたった12日間で堤防を完成させた、12日間で762億円を使い切った!
この金払いの良さが新時代の戦い方だったのでしょう。
5月20日 高松城救援の毛利軍が到着。
堤防を完成させて高松城を包囲する秀吉軍に手を出すことはできませんでした。
さらに信長が来るという情報から、毛利は秀吉との講和を開始します。
5月24日 毛利、清水宗治に降伏を勧める。
宗治は自分の命を城と共にしたいとしてこれを拒否し、自分の首を差し出す代わりに籠城者の命を助けるようにという嘆願書を書いた。
5月25日 毛利、安国寺恵瓊を使者にして秀吉に和議を申し入れる。
「備中・備後・美作・伯耆・出雲の五国割譲と城兵の生命保全」を提示するが、秀吉は拒否。「五国割譲と城主清水宗治の切腹」を要求する。
5月28日 2回目の交渉。
6月2日 本能寺の変
6月3日 秀吉、本能寺の変を知らせる明智光秀の密使を捕らえる。
「備中・美作・伯耆の3か国の譲歩と清水宗治の自刃」の条件で和議の再交渉に入る。
毛利が受け入れ、和議が成立。
6月4日 清水宗治自刃
城を取り囲む水の上に船を出し、船上で「誓願寺」を舞ったあと、辞世の句を詠み切腹。
浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して
高松城二ノ丸址の玄妙寺の境内が宗治自刃の場所とされており、石碑が立っています。
玄妙寺は慶長5年(1600)、高松の領主・花房職之によって創建されました。花房職之は高松城攻めでは秀吉側に属していました。
高松城址公園には首塚、少し離れたところに胴塚があります。
6月5日 高松城開城。
6月6日 秀吉、堤を切り撤退を開始。「中国大返し」をやってのける。
ダイナミックな動きです。
秀吉が天下人になっていく勢いが感じられます。