寿永4年(1185)に戦われた屋島合戦の跡を巡りました。
一の谷から約1年後に行われた戦いです。
一の谷で大敗した平家ですが、西国に基盤がある平家は屋島に内裏を築き、勢力を盛り返そうとしていました。
源氏側では西国を抑えるため、源範頼が九州へ遠征しています。
そして、寿永4年2月、屋島に向け義経が出陣しました。
戦いの経緯は洲崎寺の屋島合戦の説明板などを参考にすると、以下のようになります。
源氏本陣跡
瓜生ヶ丘の源氏の本陣跡です。
何も残っていません。石碑が立っているだけでした。
総門跡
平家は門を築き、海辺の防御に備えていたといいます。屋島の戦いでは総門を巡って激しい戦いが繰り広げられたようです。
佐藤継信
佐藤継信は奥州藤原氏の武将。弟・忠信とともに、義経が源頼朝の元へ参上するときから、義経の家来として働いています。
射落畠(いおちばた)
ここで、義経の身代わりになって佐藤継信が討ち死にしました。
剛弓の使い手、猛将・平教経が義経を狙い矢を放ちます。主君のピンチに継信は自分の体でガード。平教経の矢に射抜かれてしまいます。
佐藤継信の墓
義経を守って討ち死にした佐藤継信の墓と義経の愛馬・太夫黒の墓です。
寛永20年(1643)、高松藩初代藩主・松平頼重によって建てられました。
昭和6年(1931)、継信30世の孫・佐藤信古氏によって現在の形になったようです。
太夫黒は義経が後白河法皇から賜った馬。継信の忠義に対し、太夫黒を志度寺の覚阿上人に与え、継信の菩提を弔わせました。
菊王丸の墓
平教経の剛弓によって倒された佐藤継信。平教経に使えていた菊王丸が継信の首を切り落とそうとしたところ、兄を守ろうとした継信の弟・忠信によって弓で射られます。
菊王丸は教経に抱きかかえられ、軍船に戻りましたが息を引き取ります。
教経は菊王丸を哀れんで、この地に葬ったと伝えられています。
自分に仕えた菊王丸を抱きかかえて軍船まで戻る教経。優しいですね。
景清の錣引き(しころびき)
太刀を折られ、逃げる源氏の美尾屋十郎のカブトを平家の悪七兵衛景清が熊手で引っかけ、強い腕の力でカブトの綴(しころ)を引きちぎった、という物語が伝えられています。
綴(しころ)は兜に取り付けられた、後頭部と首を守るための部分。
攻める方も逃げる方も、お互い必死になって、すごい力が出たのでしょうね。
那須与一 扇の的
那須与一が扇の的を射抜くシーンは平家物語でもクライマックスの一つだと思います。
日暮れが近づき、両軍引き上げようとしたとき、平家の軍船から小舟が一艘、漕ぎ寄せてきます。日輪を描いた扇がを真っ赤な日輪を描いた扇を掲げています。
「この扇を射よ」ということです。
義経は畠山重忠に扇を射るように命じますが、重忠は辞退。代りに那須為隆を推薦しますが、那須為隆も辞退し、弟の那須与一が推薦されます。
与一も一度は辞退しましたが、義経の厳命により扇の的に挑みます。
祈り岩
与一はこの岩の所で「南無八幡大菩薩、わけても私の生れた国の神明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給え」と祈ったと伝えられています。
駒立岩(こまだていわ)
手前の大きな岩が駒立岩。満潮になるとこの岩は海中に沈みます。
与一はこの岩まで馬を進めて、足場を固めて、扇の的を狙いました。
扇は水路の向こうに見える看板のところです。
的まで意外と近いと感じがしました。しかし、船の上の的なのでゆらゆら揺れ、風もあるという厳しい条件。源平両軍も固唾をのんで見守っています。
与一が放った矢は、みごと扇を射抜きました。
よく、こういう状態で的を射抜いたものです。すごい技術、すごいメンタルです。
与一が扇の的を射抜いたとき、両軍が拍手喝采します。さらに、平家方の一名が舞を舞います。
それを義経が与一に射るように命じます。与一は今度も命中させました。
このことに怒った平家は攻撃を再開します。
義経の弓流し
平家の再攻撃による戦いの最中、義経は弓を落としてしまいます。
更に平家方が伸ばしてきた熊手に引っ掛けられ、海中に落ちそうになります。そんな状態になっても、熊手を太刀であしらい、左手のムチで弓を拾い上げました。「源氏の大将ともあろう者がこんな弱い弓を使っているのか」と笑いものになるのを恐れたからだそうです。
大将である義経自ら最前線に出て戦っていたようです。
ここで義経を捕まえてしまうことができていたら、平家の大逆転となったかもしれません。
安徳天皇社
安徳天皇社へ行く途中、「だんのうら」の文字を見つけて驚ました。
幼稚園の名前に「だんのうら」がついています。なんと、ここの地名は檀の浦。平家が下関・壇ノ浦で滅亡したことを知っている現代人としては、平家にとってなんと不吉な地名だろうと思いました。
このあたりは戦の地の利があるということで、行宮、陣営が築かれたということです。
安徳天皇社のあたりに行宮があったそうです。
洲崎寺
洲崎寺は大同年間(806~810)弘法大師により創建された寺です。
源平の戦いの戦火により炎上。義経の身代わりになった佐藤継信の遺体を焼け落ちた本堂の扉に乗せて、源氏の瓜生ヶ丘本陣まで運んだそうです。
洲崎寺は佐藤継信の菩提寺で、毎年3月19日に法要が行われています。
境内には屋島の戦いを表現した「源平の庭」があり、源平合戦を説明する石板が設置されていました。この石版を読むと屋島合戦のことがよく理解できました。
説明看板によると、「江戸時代初期の僧・真念は弘法大師に帰依し、四国88ヶ所霊場を巡ること二十余度。その間に巡拝案内記を作り、遍路みちを整備するなど、霊場の興隆につとめ「遍路の父」と仰がれている。」ということです。
今、屋島檀ノ浦には平和な光景が広がっていますが、840年前、ここで激闘が繰り広げられました。
敗れた平家は下関・壇ノ浦へと逃れていきました。
寿永3年
2月7日 一の谷の合戦で平家は破れるが、屋島を拠点にし、体勢を立て直す。
12月7日 藤戸(倉敷市)の戦いで平家は破れ、屋島へ敗走。
寿永4年
2月18日 義経率いる源氏軍が阿波勝浦に上陸。
2月19日
源氏軍、屋島に到着。那須与一ら安徳天皇社を焼き払う。
平家は海へ逃れ、海上の平家と陸上の源氏の戦いとなる。
平教経が総門に上陸。弓矢戦となる。
源氏方の佐藤継信が義経の身代わりとなり討ち死に。
源氏軍は瓜生ヶ丘に陣を敷く。
2月20日
浜辺で戦いが続く。「錣引き」、「扇の的」、「弓流し」のエピソードが生まれる。
2月21日
平家は源氏の背後から攻めようとするが、察知され敗北。下関・彦島へ逃れる。