黒田家御廟所

賤ケ岳古戦場にあった地域マップを見ると黒田家御廟所を見つけました。
どうも黒田官兵衛の祖先がいたという場所のようです。
姫路が産んだ戦国時代のヒーロー黒田官兵衛の故郷と思い、訪問しました。

④が黒田家御廟所

今まで、官兵衛の出身地として岡山県瀬戸内市長船にある黒田家墓所、ちょっとトンデモ説かもしれない兵庫県西脇市黒田庄の黒田城を訪問しましたが、滋賀県にも黒田家の故郷がありました。

ここの住所は滋賀県長浜市木之本本町黒田。地名に「黒田」が入っています。
集会所も黒田です。

黒田集会場

御廟所には源宗清がおまつりされています。宗清は黒田に館を構え、姓を黒田に変え、湖北の荘園領主として黒田判官と称されました。

集会所や廟所があるこの周辺は屋敷跡で、昭和2年(1927)に石碑が建てられました。
昭和48年(1973)に集会所を改築したときに「源宗清」の名が刻まれた石塔が見つかり、黒田氏始祖の地と確定されたそうです。

御廟所

説明看板には「初代宗清より六代高政まで約200年間、黒田氏は当地を治めていましたが、永正8年(1511)の船岡山の戦いで軍名違反を犯し、激しくとがめられ当地を去った」と書かれています。
「船岡山の戦い」は将軍・足利義稙を擁立する細川高国、大内義興と前将軍・足利義澄を擁立する細川澄元との間で起きた戦いです。
この戦いで追放処分を受けた黒田高政は黒田の地を離れ、備前長船に移りました。高政の墓所は瀬戸内市長船の妙興寺にあります。
その後、七代重隆の時代に姫路に移り小寺氏に仕え、八代職隆、九代孝高(官兵衛)と続き、十代長政の時代に筑前(福岡)藩主となり明治維新まで続きました。

黒田家の波乱万丈の物語のスタートがここ黒田でした。