清洲城

清洲城

愛知県清須市に再建された清洲城。
弘治元年(1555)から永禄6年(1563)まで、織田信長公が本拠としました。
弘治3年(1557)、弟・信行を清洲城で殺害。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは清洲城から出陣。
永禄5年(1563)には清洲城で徳川家康と清洲同盟を結ぶ。
織田信長が天下取りに向けて進む土台造りが行われた城でした。

天守閣4階には「人間五十年」の一節と金の織田信長公がおられました。

天守閣4階の織田信長公

「人間五十年」は「敦盛」という幸若舞の一節からきています。
幸若舞は中世に盛んだった芸能で、現在は福岡県みやま市の大江天満宮に民俗芸能として残されています。

思へばこの世は常の住処にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、栄華は先を立って無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も月に先立って有為の雲にかくれり
人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり
一度生を亨け、滅せぬもののあるべきか

これを菩提の種と思ひ定めざらんは、
口惜しかりき次第ぞ

信長公は「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を亨け、滅せぬもののあるべきか」を謡った後、ほら貝を吹き鳴らさせ、具足をつけ、立ったまま湯漬けを食べ、鎧をつけて桶狭間へ出陣しました。
この詩は、死んでもともとという、一か八かの大勝負に向かう心境にぴったりだと思います。
織田信長の人生には、ずっとこの詩がその底に流れていたような感じもします。

天守4階から見る

現在の清洲城は平成元年(1989)に再建されたものです。
織田信長公の頃の清洲城には天守はなかったそうですが、当時の姿が全く分からないため桃山時代の城郭を参考にして、このような城になったようです。

五条川をはさんだ対岸には清洲城石垣、清洲古城跡公園、清洲公園があります。

清洲城石垣

この石垣は平成8年(1996)の遺跡調査で発見されたもので、清洲城が取り潰され名古屋城に移転する「清洲越え」直前の石垣と考えられています。

清洲古城跡公園には織田信長公をお祀りする祠と右大臣織田信長公古城跡碑がありました。

信長公を祀る祠
右大臣織田信長公古城跡碑

JRの線路を超えて南に行くと清洲公園です。
清洲公園には信長公と濃姫の像がありました。

信長公と濃姫の像

織田信長公のもとに嫁いできた濃姫は、天文17年(1548)に結婚したということ以外、何もわからない女性です。濃姫との結婚した5年後には、平手政秀が信長の素行を諫めて自害します。
二人の生活はどういう風だったのでしょうか。
甲冑をつけた信長公の姿は格好いいです。ただし、お顔は若く、ちょっと柔らかい感じがしました。首には大きな数珠をつけており、味方を大いに勇気づけたそうです。

濃姫
信長公