大垣城

大垣城は戦前には国宝に指定されていましたが、大垣が空襲されたときに焼失。
昭和34年(1959)に再建されたものです。

創建は天文4年(1535)。慶長元年(1956)には天守が造営されたといわれています。
そして慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは西軍の本拠地となりました。

大垣駅から歩いてきて東門から大垣城に入りました。
昔は、東門は内柳門と呼ばれていて、大垣城の入り口として7つの門があったそうです。

東門

お城の中にはいろいろな展示物がありました。

大垣城の歴史。石田三成の政権維持構想。徳川家康の天下取り構想。
関ヶ原の戦いの前に行われた杭瀬川の戦いのパノラマ。
鎧・兜、火縄銃、弓矢、槍などの武器。
甲冑。

石田・小西・島津・宇喜多の連署

西軍の4人の将、石田三成・小西行長・島津義弘・宇喜多秀家が署名した書状をみると、本当に4人がワンチームで戦ったことが感じられます。

甲冑は当世具足というもので、いかにも戦国時代という感じがして格好よかったです。

弓と鉄砲のどちらかを選ぶとなると、敵からより遠くに離れられる鉄砲を選びたいです。

敵との距離は、槍が 6 m、弓矢が 30 m、鉄砲は 200 mと表示されていました。

火縄銃

杭瀬川の戦い、大垣城の戦い

西軍の本拠地となった大垣城に東軍が押し寄せます。
慶長5年9月14日 杭瀬川で東軍を誘い出し、西軍が完勝。石田三成の家臣・島左近の計略でした。この勝利で西軍の四季は高まります。
9月15日、関ヶ原で東西決戦が行われ西軍は敗北。
その後、大垣城に籠もった西軍武将は籠城戦を戦います。
関ヶ原の戦いの1週間後の9月23日、大垣城は開城しました。

おあむ物語

「おあむ」という可愛らし少女がいました。
「おあむ物語」は「おあむ」と呼ばれた老婆が、少女時代に体験した大垣籠城戦を語ったものでした。

父と一緒に大垣城へ入場。
鉄砲の弾を作ったり、味方が討ち取った敵の首にお歯黒を塗る。
14歳の弟はおあむの目の前で鉄砲に撃たれて死ぬ。
落城寸前の城からはしごを降ろし、たらいに乗って堀を渡って逃げる。
逃げる途中、妊娠していた母が赤ちゃんを産む。
父と一緒に土佐へ移り、そこで結婚。

おあむ

非常に凄惨な経験だと思います。
討ち取られた首にお歯黒を塗るというのは、今の時代では全く想像できません。

戦争はしないほうがいいですね。