小浜・鯖街道・お初の方・八百比丘尼

福井県小浜市を訪問しました。
2008年の大統領選で勝利し、第44代米国大統領に就任したバラク・オバマと「オバマ」つながりで、当時は話題になったことを思い出しました(今はオバマとつながるものは全くなかった。。。)

鯖街道

小浜は京都までつながる鯖街道の起点です。鯖街道ミュージアムがありました。
大きな鯖の看板です。

鯖街道ミュージアム

鯖街道といってもルートは数本あったようです。
一番の近道は、もっとも古くて険しい針畑超えルート。このルートはかなりの山道を歩くようです。それ以外には小浜~熊川宿~朽木~京都の若桜街道ルート、琵琶湖沿岸を通る西近江ルート、一番西の周山街道ルートがあります。
「京は遠ても十八里」ということで、72kmの距離を徒歩で鯖を運んだそうです。昔の人は良く歩きます。足が強い。

鯖を運んだ行商人の恰好ができる

お初の方

浅井家三姉妹の次女、お初の方のお墓が常高寺にあります。
豊臣秀吉の側室となり秀頼を生み、徳川家康と戦った大坂夏の陣で自害した長女、茶々。2代将軍・徳川秀忠の正室となり、3代将軍・徳川家光を生んだ三女、お江。
この二人に比べると、お初の方はちょっと地味な印象がします。

でも、激しい人生を送っています。

まず、父の浅井長政が叔父の織田信長に攻められ、小谷城が落城。母・お市の方と主に三姉妹は城から助け出されます。
次に、母・お市の方が嫁いだ柴田勝家が豊臣秀吉に敗北。北ノ庄城が落城。この時、お市の方は勝家とともに自害しますが、三姉妹は助け出されます。

天正15年(1587)にいとこでもある京極高次に嫁ぎます。この時、お初は17歳です。
慶長5年(1600)、関ケ原の戦いです。大津城主だった京極高次は徳川家康に味方。東軍から一番遠い大津城へ西軍の立花宗茂ら15,000の兵が襲い掛かりました。
京極高次は頑張りました。9月7日の開戦から約1週間持ちこたえ、9月15日に降伏、大津城を開城します。この9月15日は関ケ原で大決戦が行われた日です。
この大津城の戦いのため、猛将・立花宗茂は関ケ原に行くことができませんでした。この功績が高く評価され、高次は若狭藩主となります。

お初の方は3度も落城を経験しています。それでも生きのびたのは血筋が良かったからと言えますが、持って生まれた運もあったのでしょう。

慶長19年(1615)の大坂冬の陣では和議を取りまとめ、翌年の夏の陣のあとは秀頼の娘・天秀尼の助命を家康に嘆願します。
自分たちと同じように落城にあった娘を助けたかったのではないでしょうか。

常高寺はお初が夫・京極高次の菩提を弔い、父母の浅井長政、お市の方らを供養するために建てた寺です。創建は寛永7年(1630)。
寛永10年(1933)にお初の方は江戸で亡くなりますが、その遺体は小浜まで運ばれ常高寺に埋葬されました。国道を挟んだ裏山にお初の墓所があります。

常高寺
お初の墓

海沿いにある小浜城跡(小浜神社)は、お初の夫・京極高次と子の忠高が基礎を築いた城です。天守等の建物は残っていませんが、石垣は立派です。

小浜神社
小浜城の石垣

八百比丘尼

小浜には八百比丘尼伝説が残っており、八百比丘尼が入定したという洞窟があります。

空印寺にある看板によると次のような伝説です。

斉明天皇の白雉5年(654)、高橋長者権太夫に娘が生まれた。
娘は顔かたちが優美で、生まれながらにして智恵徳行がそなわっていた。
姫が16歳の時、竜宮でのお土産という人魚の肉を食べた。
すると、いつまでたっても年老いることなく、16歳の頃の若々しさを保った。
姫は120歳の時、髪を切って比丘尼となり、諸国巡遊の旅に出た。
宝徳元年(1449)、若狭に帰り、御瀬山中の庵で暮らしていたが、800歳になったときに大岩窟で入定なされた。

八百比丘尼入定の洞窟
傍らにあった八百比丘尼像

洞窟のそばにあった八百比丘尼の像のお顔は若々しく、微笑まれています。16歳のままなんでしょう。

海岸沿いのマーメードテラスに人魚の像があります。
ここにある説明版には、ジュゴンが小浜へ迷い込んだから八百比丘尼の伝承が語り継がれたとありますが、この人魚たちは、ディズニーの人魚姫みたいで、八百比丘尼とは全く関係ないものと思いました。

マーメードテラスの人魚の像

鯖街道、お初の方、八百比丘尼といろいろなエピソードが残っている小浜。
北陸新幹線が来て、街がもっと盛り上がるといいなと思いました。