青春18切符を買い、敦賀まで行ってみました。姫路〜敦賀は2022年7月時点で最長の鈍行列車。
新快速で約3時間。敦賀に到着です。
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)
駅から出て、街の方へ歩いていくと、武人の恰好をした人物像が建っています。
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)という人物でした。
都怒我阿羅斯等は朝鮮から来た王子で、垂仁天皇に3年間つかえ、敦賀の統治を任じられたと伝えられています。
都怒我阿羅斯等は氣比神宮にある角鹿神社のご祭神でもあります。
古代から、敦賀では日本海を利用した人物、物産の交流があったようです。
敦賀湾
敦賀を訪問した日は快晴。風も穏やかな一日でした。この海から多くの人が敦賀へきたことでしょう。
旧敦賀港駅舎は欧亜国際連絡列車の発着駅だったそうです。欧亜国際連絡列車は新橋〜敦賀港駅〜ウラジオストク〜シベリア鉄道〜ヨーロッパというスケールの大きな鉄道です。
今、ヨーロッパへは飛行機で行くのですが、列車で行くというのはロマンを感じます。
ナチスドイツによるユダヤ人迫害に対し、リトアニア領事・杉原千畝氏は日本通過ビザを発給しました。ユダヤ難民はシベリア鉄道経由で敦賀に上陸したそうです。
敦賀港は大切な役目を果たしたのですね。
赤レンガ倉庫というのがあります。明治38年(1905)にニューヨーク・スタンダード石油会社(現在のエクソンモービル)が石油の貯蔵庫として建設した倉庫でした。
現在はレストランとジオラマ館として使われています。
福井は恐竜の化石が多数発掘されたことから「恐竜王国」と呼ばれているそうです。
恐竜博士が出迎えてくれます。
氣比神宮
氣比神宮の鳥居は、広島の厳島神社、奈良の春日大社と並ぶ日本三大鳥居(日本三大木造鳥居)の一つです。
主祭神は氣比大神。神代の時代からこの地におられた神様です。
大宝2年(702)に神社が造営される前から氣比大神への信仰があったようです。
気比の松原
気比の松原は、静岡の三保の松原、佐賀の虹の松原と並ぶ日本三大松原の一つです。
東西1km、南北 400 m、38ヘクタールの土地に約1万3千本の松が生えています。すごい数です。
次の伝説が伝えられていました。
この伝説から、気比の松原は「一夜の松原」とも呼ばれるそうです。
金ヶ崎山
織田信長の金ヶ崎の退き口で有名な金ヶ崎城は金ヶ崎山に築城されていました。そして、そのふもとに金ヶ崎宮という神社があります。神社のキャッチフレーズは「難関突破と恋の宮」。
「難関突破」は信長が窮地を脱して、京都に逃げ帰ったところからつけられたのだと思いますが、「恋の宮」はよくわかりません。
神社のご祭神は尊良親王と恒良親王で、お二人の父親は後醍醐天皇です。
この神社は太平記の南北朝の戦いと関係がありました。
建武3年(1336)、尊良親王と恒良親王は新田義貞とともに北陸に進出し、金ヶ崎城を拠点とします。
建武5年(1338)、足利軍の攻撃により金ヶ崎城は落城。尊良親王と新田義貞の嫡子・新田義顕以下321名の武士が自刄しました。
金ヶ崎山を登っていくと「尊良親王御墓所見込地」、頂上に「金ヶ崎古戦場の碑」がありました。
信長だけではなく、古来から戦いが繰り広げられた山でした。
敦賀城跡
戦国時代、敦賀にお城がありました。
天正17年 (1589)に大谷吉継が敦賀に入り、城を築いたとされています。大谷吉継は関ヶ原の戦いで盟友・石田三成の西軍に味方し、奮闘するも戦いに敗れ、自刃しました。
城は元和2年 (1616) に発布された一国一城令により破却され、城らしき建物は全く残っていません。
晴明神社
正暦年間 (990〜994)、 安倍晴明は敦賀に住み、天文と地文の研究をし、この神社に参詣していたと伝えられています。拝殿には晴明が研究に使ったとされる「祈念石」があるそうですが、見逃してしまいました。南北朝の金ヶ崎山の戦い、信長の金ヶ崎の退き口でも兵火にあわなかったのは、この石の霊力のおかげとか。
お砂持ち神事
「お砂持ち神事」の由来を示すという像がありました。
お砂持ち神事とは「時宗2代目遊行上人他阿真教が、氣比神社の西門前の参道とその周辺が沼地となっていて、参拝者が困っているのを見て、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、改修にあたられたという故事」でした。
今でも、時宗の大本山遊行寺管長が交代した時にこの行事が行われているそうです。
松尾芭蕉
元禄2年8月 (1689) 松尾芭蕉はおくのほそ道の旅の途中、敦賀に寄ります。
敦賀で名月を観るのが目的だったとそうです。
参拝した氣比神社では
「月清し 遊行のもてる 砂の上」
「名月や 北國日和 定なき」
の句を詠みました。
「月清し 遊行のもてる 砂の上」は「お砂持ち神事」のことを詠んでいます。
また、金ヶ崎では
「月いつこ 鐘は沈る うみのそこ」
と詠っています。
これは「戦いに敗れた南朝軍の、海に沈んだ陣鐘を引き上げようとしたが、海底の泥に埋まっていて、引き上げることができなかった」という伝説にもとにしているそうです。
敦賀はいろいろな物語がある街でした。
意外、と言ったら失礼ですが、楽しめました。
聖武天皇の時代、異賊の大群が襲来したとき、熟質の地は突然震動し、 一夜にして数千の松が生えた。そして、松の樹上には氣比神社のお使いである白鷺が無数に群生していた。無数の白鷺の動きが、あたかも風にひるがえる旗指しもののように見えた。敵はこれを幾万の軍勢と見、恐れをなして退散した。