織田信長が最大のピンチに陥った金ヶ崎の退き口の舞台、金ヶ崎城を訪れました。
金ヶ崎城は金ヶ崎山(標高86m)に築かれた山城です。
金崎宮
金ヶ崎山のふもとに金崎宮という神社がありました。
キャッチフレーズは「難関突破と恋の宮」。
ご祭神は尊良親王と恒良親王で、お二人の父親は後醍醐天皇です。
建武3年(1336)、新田義貞は尊良親王と恒良親王を奉じて北陸に進出します。新田軍は氣比神宮の宮司・気比氏治に迎えられ、その居城、金ヶ崎城を拠点とします。
建武5年(1338)、足利軍が金ヶ崎城を攻撃。6万の大軍の攻撃に耐えられず、3月6日落城。
尊良親王に殉じて新田義貞の嫡子新田義顕以下321名の武士が自刄しました。
摂社 絹掛神社はその人達をお祀りしています。
金ヶ崎城跡
金崎宮をあとにして、山を登っていきます。
途中、「尊良親王御墓所見込地」がありました。
説明板によると、安政年間(1854〜1860)に経塚が発見されたことから、明治になり尊良親王墓所見込地の碑が建てられたそうです。
頂上には金ヶ崎古戦場の碑が建っていました。
頂上は月見崎といい、月見御殿と呼ばれていて、南北朝時代の金ヶ崎城本丸跡だそうです。
月見崎の北側は急斜面。とてもこの斜面を登れるとは思えません。金ヶ崎城は守りが堅い城だったと思いました。
月見崎から見る敦賀湾は静かでした。尊良親王たちもこの光景を見たのでしょうね。
金ヶ崎の退き口
元亀元年(1570)4月20日、織田信長は越前の朝倉義景を攻めるため京を出陣。
26日、金ヶ崎城を落とす。
越前に攻め込もうとしたとき、同盟を結んでいた近江の浅井長政が裏切る。
北からは朝倉義景が、南から浅井長政が迫り、金ヶ崎の織田軍を挟み撃ちにしようする。
28日、織田軍は総退却。羽柴秀吉、明智光秀らが金ヶ崎城に残ってしんがりを務める。
30日、信長は京都に帰還。