神戸市木津・顕宗仁賢神社

顕宗仁賢神社

神戸電鉄木津駅の近くに顕宗仁賢神社という小さな神社があります。
この神社には顯宗天皇と仁賢天皇がおまつりされています。
創建は仁賢天皇11年と伝えられており、これが正しいとすると5世紀後半と考えられます。

顯宗天皇と仁賢天皇の子供の頃のお名前は弘計と億計です。どちらもオケと読みます。
弘計と億計が皇位につくまでには激しいドラマがありました。

  • 第19代允恭天皇が崩御する(453年)。
  • 皇太子であった木梨軽皇子は弟の穴穂皇子に殺され、穴穂皇子(第20代安康天皇)が即位。
  • 安康天皇は弟の大泊瀬皇子の結婚相手として草香幡梭姫皇女を選び、根使主を使いに出す。しかし、根使主にだまされ草香幡梭姫皇女の兄・大草香皇子を殺す。そして、大草香皇子の妻を自分の皇后としてしまう。
  • あるとき、皇后の連れ子である眉輪王が夫婦の会話を盗み聞きし、安康天皇が父を殺したことを知る。
  • 眉輪王は安康天皇が寝ているすきに首を斬り落とし復讐を遂げる。
    その後、眉輪王は大泊瀬皇子に殺される。
  • 安康天皇は皇太子を指名しないまま死んだため、皇位継承の争いが起こったが、安康天皇の弟・大泊瀬皇子が市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)などの競争相手を殺し、即位する(第21代雄略天皇)。
  • 市辺押磐皇子の子・弘計と億計は雄略天皇から逃れて、屯倉首の忍海部細目(おしんべのみやつこほそめ)の使用人となり、火焚き・水汲み・芝刈りなど炎暑寒冷をいとわず働いた。近くにある志染の岩室にも隠れたとされる。
  • 雄略天皇が崩御(479年?)。雄略天皇の子・白髪皇子が即位する(第22代清寧天皇)。
  • 清寧天皇には皇子がおらず、皇位を継ぐべき人を探していた。
  • 播磨国司・小楯が、宴会が催されている細目の家に来たところ、二皇子が歌に託して身分を明らかにした。
  • これを聞いた小楯は清寧天皇に奏上。清寧天皇は二王子を都に迎えた。
  • 清寧天皇の崩御後、弟の弘計が即位する(第23代顕宗天皇)。
  • 3年後に顕宗天皇が崩御し、兄の億計が即位した(第24代仁賢天皇)
    仁賢天皇は「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」という善政を敷いた。

競争相手を殺しまわった父・雄略天皇とその子供である清寧天皇はだいぶ違う印象があります。
でも、天皇(大王)の座をめぐって殺しあっていた時代に、このような美しい話が本当にあったのでしょうか。清寧天皇から見ると弘計と億計ははとこで、血縁といっても遠い関係です。
なんとなく謎めいた感じがします。

神社には2枚の絵馬が掲げられていました。
一つは弘計と億計が働いているところ。もう一つは清寧天皇に迎えられて都へ向かうところを描いたものだそうです。

働く弘計と億計
都に迎えられる

木津駅のお隣の木幡駅の北には、弘計と億計が働いたという忍海部細目の屋敷跡の碑があります。
細目氏がこの辺りを支配していて、忍海部(おしんべ)から押部という地名になったといわれています。
それにしても、1500年も前の屋敷跡がわかっているなんてすごいことです。

忍海部細目の屋敷跡の碑

顕宗仁賢神社の境内には巨大なヒノキが生えていました。
高さ23.5メートル。周長350センチメートル。樹齢は400年以上とのこと。
しかし、この木でも弘計・億計の時代よりずっと新しいですね。