知恩院

知恩院へ行こうと円山公園を通っていきました。円山公園は花見の客で賑わっていました。
昔はこのあたりも知恩院の境内だったようです。

円山公園

知恩院は浄土宗の宗祖・法然上人が建てた草庵を起源とする浄土宗の総本山です。

国宝の三門は徳川第2代将軍・徳川秀忠公によって建立されました。
高さは24メートル、幅50メートルもあります。使われている瓦は7万枚。
巨大です。

この門が「山門」ではなく「三門」と書くのは、三解脱門を表しているからとのこと。
三解脱門とは「空門」、「無相門」、「無願門」という悟りに通じる3つの解脱の境地を表しているそうです。東京・芝にある増上寺も同じく三解脱門でした。

三門

石段を登っていくと、これまた大きな御影堂です。
寛永16年(1639)に3代将軍・徳川家光公によって建立されました。
御影堂の中に入って見学することができます。

浄土宗を開いた法然上人は、現在の知恩院、安養寺、円山公園を含む広大な吉水草庵で活動され、住まわれたところは知恩院御影堂のあたりだったようです。

法然上人
平安時代末期の長承2年(1133)、美作(岡山県)で生まれる。幼名は勢至丸。
13歳で比叡山に上る。
18歳のとき法然房源空の名を授かる。
43歳(承安5年/1175年)、「南無阿弥陀仏」を称えればすべての人が救われるという専修念仏の考えから比叡山を下り、東山に吉水草庵を建て、布教を始める(浄土宗の開宗)。
72歳(元久元年/1204年)、専修念仏の禁止を求められる(元久の法難)
75歳(建永2年/1207年)、讃岐(香川県)に流される(承元の法難)。
79歳(建暦元年/1211年)、許されて京に戻る。吉水草庵が荒れていたので大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入る。
80歳(建暦2年/1212年)、「一枚起請文」を書いた後、往生を遂げる。

こうしてみると、法然上人は長生きでした。でも、年老いてからの法難、流刑はたいへんだったのではないかと思います。

御影堂

大鐘楼の鐘も巨大です。
作られたのは寛永13年(1636)。重さは70トンもあります。こんなに重たいものをどうやって運んだんでしょうか。
大晦日の「ゆく年くる年」で、除夜の鐘をつくときの光景を思い出しました。

大鐘楼

徳川家康公が浄土宗の信者で、知恩院を母・於大の方の永代菩提寺に定めました。
知恩院の建物はどれも大きくて立派ですが、徳川幕府が支援すると、こんなに巨大な建造物ができるのですね。徳川家の力を見せつけています。
それにしても、こんなに大きな建物ができたことを法然上人が知ったら驚くでしょうね。