戦国から江戸にかけて鉄砲を生産した長浜市国友町。
ここに国友鉄砲ミュージアムが建っています。
中に入ると火縄銃、大筒など国友で生産されたたくさんの鉄砲が展示されています。
特に国友が産んだ東洋のエジソンこと国友一貫斎の展示が充実していました。
天文12年(1543)、種子島に大型船が漂着。種子島の領主・種子島時尭は船に乗っていたポルトガル人から2挺の火縄銃を購入。鍛冶の八板金兵衛清定に製造を、家臣に火薬の製法を学ばせ、日本での鉄砲生産が始まります。
国友での鉄砲生産は、将軍・足利義晴からの命令により始まったと伝えられます。それはなんと、天文13年。鉄砲伝来の翌年です。
その後、織田信長や豊臣秀吉の保護を受け鉄砲生産が拡大、江戸時代には天領となります。
国友では銃身部分をつくるもの、機構部分(からくり)をつくるもの、台座を作るものなど分業制をとり大量生産ができるようになっていました。
こうして国友は日本最大の鉄砲生産地となります。
火縄銃は口径によって3ランクに分けられ、口径16㎜(6匁玉)以下が細筒、口径33㎜(50匁玉)以上が大筒、そのあいだが中筒だそうです。
国友の鍛冶師たちは多くの大名に召し抱えられたようです。
東洋のエジソンこと国友一貫斎は安永7年(1778)、国友に生まれました。
鉄砲造りのマニュアル「大小御鉄砲張立製作控」、反射望遠鏡の製作と天体観測、空気銃、「ねずみ短檠」という灯火具など、さまざまのものを作っています。
国友鉄砲ミュージアムから少し離れたところに国友一貫斎の住居跡を示す石碑が建っています。
また、鉄砲ミュージアムの周りには鉄砲鍛冶たちの碑がたくさん建てられていました。
また、「星を見つめる少年」、読書をしている「夢見るナナ」という像がありました。どちらも希望にあふれた若さを感じさせる像でした。
街の雰囲気は、なんとなく刀鍛冶の備前長船・福岡に似てるなと思いました。
どちらも職人の技で生きてきた歴史があるからかもしれません。