賤ケ岳古戦場

賤ケ岳古戦場跡を訪問しました。
羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の戦い。
この戦いに勝った秀吉は天下統一に向けて大きな一歩を踏み出しました。

賤ケ岳山頂へは賤ケ岳リフトで登りました。
片道約6分です。料金は往復で900円でした。

山頂駅

リフトの山頂駅から山頂までは約10分程度の山登りです。

山頂を目指す

途中に賤ケ岳合戦戦没者霊地がありました。勝った秀吉軍は4,000~6,000人、柴田軍が8,000人の死傷者をだしたそうです。

賤ケ岳合戦戦没者霊地

山頂には賤ケ岳の碑と槍をかかえて岩に腰を掛けて休んでいる武士の像がありました。
疲れて休んでいる像というのは珍しい。この像のタイトルは「戦いのあと」ということでした。

賤ケ岳碑
武士の像

賤ケ岳の標高は421m。山頂からは大パノラマで琵琶湖を見渡すことができます。

琵琶湖

秀吉軍に打ち破られた柴田軍が退却する際に、柴田勝家の身代わりとなって奮戦、討死した武将がいます。毛受茂左衛門、勝助の毛受兄弟です。

毛受兄弟は主君・勝家を退却させるために勝家の馬印を受けとり、わずか200の手勢で秀吉軍に立ち向かいました。奮戦むなしく二人は討死しますが、勝家は無事に北ノ庄まで落ちのびることができました。
この二人の武功を秀吉は激賞します。遺体を丁重に葬り、遺族を探し手厚く保護したということです。

毛受兄弟の墓
毛受兄弟の菩提寺・全長寺

本能寺の変から賤ケ岳合戦までの経緯は次のようになっています。

天正10年(1582)6月2日 本能寺の変により織田信長自害。
6月13日 山崎の戦で羽柴秀吉が明智光秀を破る。
6月27日 織田家の後継者を決める会議(清須会議)が清州城で行われる。
 柴田勝家は信長の三男・織田信孝を推し、羽柴秀吉は嫡男・織田信忠の子・三法師を推す。
 同席した丹羽長秀、池田恒興らが三法師擁立に賛成したため、羽柴秀吉の意見が通った。
12月2日 秀吉、長浜城を攻撃。柴田勝豊を降伏させる。
12月20日 秀吉、岐阜城を攻撃し、織田信孝を降伏させる。
天正11年(1583)
3月12日 柴田勝家、3万の兵を率いて近江柳ケ瀬に布陣。
3月19日 滝川一益がこもる長島城を包囲していた秀吉は織田信雄と蒲生氏郷を残し、木之本に布陣。
4月16日 降伏した織田信孝が再び挙兵。
4月17日 秀吉、美濃に進軍。大垣城に入る。
4月19日 佐久間盛政(柴田方)、大岩山砦を攻撃。中川清秀(秀吉方)が討死。
4月20日 丹羽長秀(秀吉方)が賤ケ岳砦の確保に成功。
 秀吉の美濃の大返しを決行
 14時に大垣を出、5時間で木之本までの13里(52㎞)を移動。
4月21日 佐久間軍と秀吉軍が激戦を繰り広げる。
 前田利家(柴田方)が突如戦線離脱。
 秀吉軍、佐久間軍を撃破。柴田勝家本体に襲い掛かる。
 毛受兄弟が柴田勝家の身代わりとなり討死。
 勝家、越前北ノ庄に退却。
4月23日 秀吉、北ノ庄城を包囲。
4月24日 柴田勝家、お市の方と主に自害。

本能寺の変の1年後の戦いです。
信長の一武将から抜け出した秀吉のエネルギッシュな活躍が始まりました。