丹波篠山・篠山城

兵庫県丹波篠山市にある篠山城は豊臣家が籠もる大阪城を包囲する城として築かれました。
築城を命じたのは徳川家康。
慶長14年(1609)、築城の名人・藤堂高虎によってわずか6ヶ月で造られたといいます。
城の出入り口の大手門、東門、南門に馬出しが造られており、守りを固めた城だということでした。
城を囲む堀や石垣は立派です。

城に入っていくと大書院という御殿があります。
中は資料館になっており、甲冑や篠山城の復元模型などが展示されていました。

黒鉄門跡と大書院
篠山城の模型

京都二条城の二の丸御殿を参考にして建てられたという大書院の広間はとても大きくて立派です。
ここは藩の政治の中心として公式行事が行われたとのことでした。

大書院の大広間

この大書院を使って映画が撮影されています。

女信長:2013年、天海祐希、内野聖陽
超高速!参勤交代:2014年、佐々木蔵之介、西村雅彦
信長のシェフ:2014年、玉森裕太、及川光博
影武者 徳川家康:2014年、西田敏行、観月ありさ
超高速!参勤交代 リターン:2016年、佐々木蔵之介、深田恭子
蚤とり侍:2018年、阿部寛、寺島しのぶ
レジェンド&バタフライ:2023年、木村拓哉、綾瀬はるか

大書院があるのは二の丸で、東側は青山神社や天守台がある本丸です。

青山神社は明治15年(1882)に創建された神社で、篠山藩主青山氏の祖・青山忠俊と第12代藩主・青山忠裕がおまつりされています。
青山忠裕は約30年間老中を務め、この功績で篠山藩は5万石から6万石へ加増されました。
篠山藩の栄光の時代ですね。

青山神社

神社の横には青山忠誠の顕彰碑があります。青山忠誠は13代藩主青山忠良の子です。

青山家の当主となった忠誠は福沢諭吉に相談して講師を派遣してもらい学校を設立、さらに東京に進学した者のための寄宿舎も設立しました。わずか29歳で亡くなりましたが、教育にかける情熱は素晴らしかったようです。
忠誠が設立した学校が火事にあったとき、「学舎は焼くとも教育焼くな」との言葉を発し、すぐに学校を再建したそうです。この学校が現在の篠山鳳鳴高等学校へと続いています。

青山忠誠顕彰碑

篠山城では天守閣は造られませんでした。江戸幕府から「城郭が堅固すぎる」とのクレームがついて天守閣建設は中止されたそうです。この城が敵に奪われたときのことを考えて、天守閣を造らせなかったのでしょうか。

天守台

篠山城は大阪城に対する備えでもあり、西国を抑える城ということで、藩主は徳川氏譜代が務めています。
大書院に掲示されていた歴代藩主のエピソードは次のようなものでした。

初代:松平康重 八神城から篠山城へ移る。元和5年(1619)に岸和田藩へ転封となる。
2代:(藤井)松平信吉 上野国高崎より入封。郷代官を任命する。
3代:松平忠国 播磨国明石へ転封となる。
4代:(形原)松平康信 摂津国高槻から入封。藩政を改革する。
5代:松平典信 玉水を復興する。
6代:松平信利 15歳で藩主となるが、18歳で病没。
7代:松平信庸 儒学者・松崎蘭谷を登用。
8代:松平信岑 享保の飢饉発生。丹波国亀山へ転封。
9代:青山忠朝 丹波国亀山から入封。松茸を将軍に献上する。
10代:青山忠高 藩校「振徳堂」を開校する。
11代:青山忠講 飢饉(天明の大飢饉)が続く。
12代:青山忠裕 酒造出稼ぎを緩和する。
13代:青山忠良 能舞台の寄進。地震が発生し篠山城の石垣が2か所崩れる。
14代:青山忠敏 篠山城を開城。明治維新を迎える。

約250年続いた江戸時代。うまくいっていたときも、うまくいかなかったときもあり、お殿様もたいへんだったようです。