増上寺・徳川将軍家墓所

増上寺を訪問しました。
浜松町駅から歩いていくと大きな芝大門。バックには東京タワーが見えました。

この門が増上寺の総門で、昭和12年に木造から鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されたものだそうです。


道沿いにある説明板を読みながら歩きました。浮世絵があったりして、楽しい。
今では考えられないが、このあたりは大松原だったことが浮世絵でわかります。

芝大門之雪 川瀬巴水作(浮世絵版画)

三解脱門という大きな門があります。

江戸時代初期に建てられた門ということです。
東京大空襲でも焼けずに残ったのでしょうか。

三解脱門

慶長十六年(1611)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中井大和守正清によって建立され、元和八年(1622)に再建されました。
この門は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。
三解脱門は、別名「三門」と呼ばれ、三つの煩悩「貪欲(とんよく・むさぼり)、瞋志(しんに・いかり)、愚痴(ぐち・おろかさ)」の三悪を解脱する悟りの境地を表しています。
建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。
その大きさは、間口十間余(約 19 メートル)奥行五間(約 9 メートル) 高さ七丈(約 21 メートル)の二重建て構造。
さらに左右には三間(約 5.4 メートル)の山廊を有しています。上
層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像が安置されています。

増上寺についてはこのように説明されています。

三縁山 広度院 増上寺

浄土宗の七大本山の一つ。
三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称です。
開山は明徳四年(1393)、浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明二年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。
江戸時代初期、増上寺法主第十二世源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依(きえ)を受け、手厚い保護を受けました。
慶長三年(1598)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林(だんりん)の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。
その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。
現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵しています。


天気がよく、増上寺のバックに東京タワーが見えて非常にきれいでした。

徳川家康公が増上寺を建てたときは、まさかバックに東京タワーができるなんて、家康公が神君といえど、まったく想像できない光景でしょう。

鐘楼堂にもエピソードがありました。

寛永十年(1633)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。
納められている大梵鐘は、延宝元年(1673)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。
徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、七回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ、東日本では最大級として知られています。その大きさ、高さ一丈(約三メートル)重さ四千貫(約十五トン)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。
江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきました。

鐘楼堂の説明板より

安国殿・黒本尊というのがあります。

安国殿と黒本尊

この建物は徳川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。
「安国殿」とは元来家康公の尊像を祀る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う境内堂宇整備の一環として、昭和四十九年(1974)当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊 阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。
建物の老朽化に伴い、平成二十三年(2011)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立しました。
「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、五月、九月の各十五日、年三回行われる祈願会の時だけ御開帳されます。
また両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれています。

訪問した日は、宝物展示室で台徳院殿霊廟模型・五百羅漢図が展示されていました。

戦争で焼けなければ、模型ではなく本物が残っていたのに。
当時の写真を見ると、すごい歴史的価値がある建物だったと思います。
戦争なんか、やるもんではないと思います。
バカバカしい。

戦争前の増上寺御霊屋


台徳院殿霊廟は二代将軍・秀忠公の御霊屋として、寛永九年(1632)に三代将軍・家光公によって造営されました。
ものすごい建物だったことが、模型を見ただけでもわかります。

徳川将軍家の墓所が公開されていました。

墓所に行く道沿いに可愛らしい地蔵菩薩様がいました。
千躰子育地蔵菩薩というお地蔵様です。約1,300体が安置されています。
子供の「無事成長」「身体健全」、あるいは「水子」供養のためにと願いを込めて建てられたものということです。

子育地蔵に沿って歩いていくと墓所の入り口に着きます。

徳川将軍家墓所

戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいました。
墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。
その後昭和二十年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。
正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家六代将軍家宣公)の宝塔前『中門』であったものを移築しました。
左右の扉は共に青銅製で五個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。
墓所には、二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の六人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静寛院宮(十四代家茂公正室和宮)ら五人の正室、桂昌院(三代家光公側室、五代綱吉公実母)はじめ五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。

説明板より

鋳抜門には葵の紋が入っています。両脇の龍もすごい。

中に入ると、以外にこじんまりとしていました。

ここには二代将軍・秀忠公 含め6人の将軍の墓があります
( 六代・家宣公、七代・家継公、九代・家重公、十二代・家慶公、十四代・家茂公)

二代将軍・秀忠公は正妻のお江の方と一緒になっておられました。

二代将軍 秀忠公 台徳院殿
六代・家宣公
九代・家重公
皇女・和宮様


増上寺は建物も大きく、将軍の菩提寺ということで格式が高いのがよくわかりました。

秀忠公がお江の方と一緒のお墓に眠られていること、可愛らしい地蔵菩薩たちにホッとしました。