曽根天満宮

曽根の松で有名な曽根天満宮をお参りしました。
加古川、高砂の海岸沿いは菅原道真公が大宰府に流されるときに立ち寄られて、松を植えたという話を伝える神社が多くあります。
その神社にはその時の松が今も残っていて、どの松も特徴があっておもしろい。

曽根天満宮の御祭神は菅原道真(スガワラノミチザネ)、天穂日命(アメノホヒノミコト)、菅原公達(スガワラキンダチ)。

神社の由緒は案内看板のよると以下のように記されています。

醍醐天皇の御代、延喜元年(901)管原道真公は冤罪を蒙り九州大宰府へ左遷された。その途次、伊保港(当社東南約二キロ)に船を寄せ給い、梅井の清水を里人に教え、当所西方の日笠山に登り、播磨灘の風光を賞ぜられた。そして「我に罪なくば栄えよ」と祈念して山上の小松を植えられた。これが、霊松曽根の松で、現在も幹が保存されている。後、四男淳茂公が、臣十三人と共に当地に至り、公縁りの地に社を建てお祀りしたのが創始と伝えられる。

案内看板による

一の鳥居は山陽電鉄曽根駅前にあって、そこから神門まで参道が通っています。

一の鳥居
神門まで続く参道

神門には随神がおられて、享保十二年(1727)の建立です。
本殿などは 天正六年(1578)豊臣秀吉の播州平定の際に焼失しました。
その後、本殿は天正十八年(1590)に再建され、拝殿は慶長十四年(1609)に建てられました。

羽柴(豊臣)秀吉の播州攻めで多くの寺院が焼かれています。

神門

拝殿のしめ縄がものすごく大きい。
神戸新聞によると「しめ縄は伝統の二本よりで、長さ6・5メートル・幅1メートル。大きさは近畿で一番」ということです。近畿で一番なので京都や奈良の神社のしめ縄よりも大きいということです。もっと自慢、アピールしたらいいのに、と思います。

拝殿
大きいしめ縄

しめ縄の陰から天満宮の額を見ます。しめ縄の太さが感じられます。

神門の右手に霊松殿と言う建物があります。

次のような説明がありました。

菅公手植の霊松は、天正の兵火以後衰弱し、寛政十年(1798)枯死した。その幹は霊松殿に保存し、その枝を使用して10分の1の模型が作られている。枯死の直前、寛政七年に当社を訪れた小林一茶は「散り松葉 昔ながらの掃除番」との句を残した。

案内看板より
初代霊松

霊松殿の横に曽根の松と心池(こころいけ)があります。
5代目の霊松曽根の松が植えられていました。

心池は「心」の形の池になっています。石橋は享保八年(1723)の作です。

心池
石橋

小林一茶が寛政七年に曽根天満宮を訪れました。
境内に句碑「散り松葉 昔ながらの 掃除番」が建てられています。

小林一茶が曽根天満宮に参拝したことは「西国旅日記」に記されています。

「西国旅日記」に菅原道真公の松が「片枝枯れて」と書かれているので、霊松が寛政十年に枯死したという事実が裏付けられるとのことです。

神社の横にある公園があって、多くの松が植えられています。その松林が美しいです。