柳田國男と妖怪たち

 福崎町にある柳田国男の生家を訪問しました。

柳田国男氏は次のような人です。

  • 明治8年(1875)、松岡操の六男として現兵庫県神崎郡福崎町辻川に生まれる。
  • 東京帝国大学を卒業。農務官僚、貴族院書記官長、枢密顧問官などを務める。
  • 講演旅行などで次第に民俗的なものへの関心を深め、庶民の生活の中に行き続ける信仰、習慣、伝承、儀礼、行事を訪ねて全国を歩き日本民俗学を創始した。
  • 著書には『遠野物語』、『蝸牛考』、『桃太郎の誕生』、『故郷七十年』などがある。
  • 松岡家からは國男のほか、4人の兄弟たちもそれぞれの分野で活躍した。
     松岡鼎(長男)  医師、政治家
     井上通泰(三男) 国文学者、歌人
     松岡静雄(七男) 海軍大佐、言語学者
     松岡輝夫(八男) 日本画家
  • 柳田国男は『故郷七十年』で生家を「私の家は日本一小さい家だ」「この家の小ささ、という運命から私の民俗学への志も源を発したと行ってよいのである。」と述べている。

柳田國男生家

生家脇には柳田国男の像と句碑が建っています。


おさな名を 人に呼ばるる ふるさとは
昔にかへる ここちこそすれ

柳田國男が辻川へ帰省した時、友らに囲まれ「くにおはん」と呼ばれて、少年時代を懐かしみ、故郷に残した一句と説明されています。


生家は松岡家が引っ越した後、大門という所に移されましたが、昭和47年顕彰会が譲り受け、この地に持って帰り、國男らが暮らした当時の姿に復元しました。

生家入り口
生家内部

四畳半二間、三畳二間の小さい家です。
ここに國男の両親と國男、静雄、輝夫、そして松岡鼎夫婦の計七人が住んでいました。



もともとの生家はここから南に100mぐらいのところにあったようで、石碑が建てられています。

柳田國男氏もすごいが、兄弟みんながその道で名を成したというのがすごいと思います。
お互いが触発しあって、こういう兄弟が生まれたのでしょうか。

鈴の森神社

柳田國男が小さい頃、よく遊んだという神社で、学問と安産の神様です。

御祭神
・彦瓊々杵命(ヒコホノニニギノミコト)
・天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
・太玉命(フトタマノミコト)。
創建年は不詳です。

拝殿
ヤマモモの木

ヤマモモの木は福崎町指定の天然記念物です。柳田國男がこの木に登って遊んだそうです。

多くの絵馬が奉納されていました。

妖怪たち

柳田國男の民俗学ということで生家の周りには妖怪たちがいます。

かっぱの河太郎と河太郎

市川の川岸、駒ケ岩という大きな岩にかっぱの兄弟、河太郎と川次郎が住んでいた。
二匹は川に水遊びにやってきた子供の足をつかんで引きずり込み、尻子玉を抜くという悪さをしていた。やがて、子どもたちはかっぱを怖がって遊ばなくなった。二人は自分たちのせいだと後悔し、柳田國男先生に謝ろうと駒ケ岩から辻川公園の池にやってきた。
河太郎は池のほとりで、河次郎は池の中で待っていた。二匹は何年も待ち続けた。
とうとう兄の河太郎は頭の皿の水がなくなって動けなくなってしまった。
河次郎はときおり水の中から顔を出す。

川次郎が水の中から出てきます。

逆さ天狗ともちむぎどらやき

天狗は好奇心旺盛で人間にいたずらをしていた。
ある日、空を飛んでいた天狗は一軒の小さな家を見つけた。
いたずらしようとしたとき、「誰じゃー」の声がする。柳田國男先生だった。
「天狗が何をしに来たんじゃ」と聞かれて、天狗はいたずらをしに来たとは言えず、「お腹がすいて」とウソを言った。すると、柳田國男先生がもちむぎどらやきをくれた。
もちむぎどらやきがとても美味しくてとりこになってしまった天狗は、生家の近くに小屋を建てて住みつき、お腹がすいたら小屋から出てくるようになった。

小屋から出てきた天狗
しっかり、もちむぎどらやきを握っています

他にもいろんな妖怪がいます。

駒ケ岩

河太郎(ガタロ)が住んでいた駒ケ岩に行ってみました。

國男兄弟は、夏になるとこの岩の上で衣を脱いで、そばの淵で泳いだり、うなぎの枝釣りをして遊びました。市川で遊んでいるとガタロ(河童)が出て、お尻を抜かれるという話をよく聞かされたそうです。

福崎町の案内看板

こういうところで兄弟、友達と遊んで楽しかったんだろうと思いました。