慶雲寺・お夏清十郎比翼塚

姫路城の北西にある慶雲寺の境内に、お夏清十郎比翼塚が祀られています。

お夏は姫路の大店但馬屋の娘。清十郎は室津の造り酒屋の息子で美男であった。
清十郎は故あって但馬屋に務めるようになる。但馬屋で律儀に勤めた清十郎は万人から好かれるようになった。
いつしか、お夏と清十郎は相思相愛になる。
許されない愛をかなえるため、二人は駆け落ちするが捕まってしまう。
清十郎はかどわかしに加え、店の金を持ち逃げした罪まで着せられ打ち首となる。
このことを知ったお夏は黒染めの衣に身を包んで読経三昧に暮らし、清十郎の冥福を祈った。

実際に起った事件に基づいて井原西鶴や近松門左衛門が悲恋の劇にしました。
※井原西鶴の「好色五人女」は貞亨三年(1686)、 近松門左衛門の人形浄瑠璃は宝永四年(1707)に発表されています。

慶運寺は嘉吉3年(1443)の開山です。もとは天台宗でしたが、天正5年(1577)南景和尚の代に臨済宗に代わりました。
姫路藩主・池田輝政が寄進した姫路城築城の木材で本堂等を再建。観音堂の如意輪観音像は、輝政の妻・督姫(家康娘)が寄進したものです。藩主との強い結びつきを感じます。

慶雲寺山門
本堂
鐘楼

比翼塚への入口を入っていくと、ずっと奥にお夏の顔出し看板が見えます。

比翼塚への入口

お夏清十郎の物語は但馬屋の娘お夏と但馬屋の奉公人清十郎が悲恋の末、清十郎は刑死、お夏は気が狂ってしまうという話です。

お夏の但馬屋は米問屋で、姫路二階町通りの近くに生家があったようです。清十郎は室津の造り酒屋の息子で、室津には生家跡があります。
万治2年(1659)、但馬屋で暇を出された奉公人が主人を恨んで斬りつけるという事件が起こります。この事件がお夏・清十郎の物語になりました。

比翼塚


じつは、ここには墓はありません。

清十郎は刑死なので、墓を作ることが禁じられています。
お夏はその後、嫁いでいったという話があり、姫路に墓はないようです。

姫路市のwebマップでは、比翼塚は霊を慰める為に但馬屋が建立したものと述べられています。

むこうを通るは清十郎じゃないか
笠が要似た菅笠が……
という俗謡が大流行し、畏くも天皇上聞に達し御製を賜りたるもの。

    御製
        後水尾天皇
            清十郎きけ
            夏が来たりとほととぎす
        後西天皇
            傘がよう似た
            ありあけの月

説明看板より

後水尾天皇(1596〜1680、在位1611〜1629)、後西天皇(1638〜1685、在位1655〜1663)が歌を詠まれています。
お二人の享年から、お夏清十郎の話は井原西鶴、近松門左衛門が大ヒットさせる以前から有名な話だったと考えられます。