加古川城跡である称名寺を訪問しました。天正五年(1577)、ここで加古川評定が行われました。味方だったはずの秀吉と三木別所氏が決別。
織田・秀吉 vs 別所・播磨勢・毛利の戦いが始まりました。
15歳の加古川城主・糟屋武則は織田に味方します。
武則は秀吉の小姓頭となり、賎ヶ岳七本槍の一人として武名を上げました。
観応元年(1350)出雲守塩冶判官高貞は京都を追われ、本国の出雲の国に逃げていきました。今の高砂市米田町で、足利尊氏の執事であった高師直の追手に追いつかれます。
そのとき、郎党七名が主君を討たせまいと激しく戦い、全員討ち死にしました。
文政三年(1820)に建立された供養塔には七名の名が刻まれています。
平田十郎左衛門、淵名七郎、木村玄信入道、塩谷六郎重貞、木村源吾、眞島兵衛、山中四郎
姫路市豊富には塩冶判官高貞の妻が自害したという焚堂跡があります。
※ 加古川評定
毛利攻めのために秀吉が播磨の城主を集めて開いた軍議。
戦国時代、播磨は三木の別所氏、御着の小寺氏、龍野の赤松氏が争っていた。
いち早く織田についた黒田官兵衛の働きで、播磨の城主は織田に味方することでまとまっていたが、加古川評定において三木城主別所長治の叔父、賀相が秀吉の不興をかい、軍議が決裂。三木別所氏は毛利方につくことになった。野口城、神吉城などの別所氏恩顧の城主も秀吉に敵対。
三木城が降伏するまで約2年間の織田・秀吉
対 別所・播磨勢・毛利の戦いが始まった。