姫路勤王の志士 河合惣兵衛

幕末の姫路藩で尊皇攘夷の運動がありました。
元治元年(1864)甲子の獄と呼ばれる姫路勤王志士の粛清で姫路藩の反幕運動は終わります。
そのとき、攘夷運動の中心にいたのが河合惣兵衛です。

河合惣兵衛祈念碑

河合惣兵衛祈念碑が姫路城外堀公園に建っています。

この碑の説明として以下が記されています。

この碑は旧河合邸跡(北約200m)に建立されていたが、昭和二十年敗戦に伴う占領政策によって除去せられ、ただ碑石飲みが護国神社本殿東側に放置のまま寂しく苔むしていた。明治百年に当たり河合惣兵衛の偉勲を偲び且つこれを永く後世に伝えたき念願を以て広く浄財を募りここに復元再建することを得たのである。

姫路城外堀

河合惣兵衛屋敷跡の碑

外濠公園から外堀川に沿って北に上がっていくと、「かわいばし」に河合惣兵衛屋敷跡を示す碑があります。

河合惣兵衛の略歴が記されています。

文化十三年(1816)姫路藩士河合宗信の子として生まれる。名は宗元。はじめ藩校好古堂の肝煎役となり、ついで使番勘定奉行、宗門奉行となり、さらに物頭、持筒頭となる。文武両道に達し、早くより尊攘論に傾倒し、姫路藩尊攘派の領袖として活躍したが元治元年(1864)甲子の獄に連座して禁固を命ぜられ、ついで獄に下った。同年十二月二六日に自刃を命ぜられ、四九歳で没した。尚明治二十四年特旨を以て従四位を贈られる。墓は坂田町善導寺にあり。
尚邸跡はこの碑の前の道路を挟んだ所。

平成九年(1997)三月 城東地区連合自治会

善導寺 河合惣兵衛の墓

河合惣兵衛の墓が善導寺にあります。

善道寺は鎌倉時代の木造薬師如来像、建武元年(1334)の銘の卒塔婆が残る歴史の古い寺です。


開基は寛仁元年(1017)華厳宗の高僧 誓忍阿闍梨
もともとは梛本という地にあり梛寺と称していた。
享徳二年(1453)梛寺の側を流れる藍見川をへだてて善導、法然が対面なされるという奇瑞があり、以降浄土宗に改宗し、寺名も善道寺に改めた。
関ヶ原の戦いの後、池田輝政による姫路城築城のため、慶長六年(1601)頃、当地に移転した。

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門の外にある「幕末・姫路の尊攘志士」の碑

境内にある河合惣兵衛の墓

勤皇志士の碑

姫路の飲み屋街 魚町の近く、船場川沿いの公園に勤皇志士の碑があります。

碑文には「姫路藩勤皇志士終焉之地」と刻まれています。

この公園の場所には、かつて藩の獄舎があり、ここで8名の勤皇志士が打首、切腹の処分を受けました。

以下が説明が記されています。

この碑は昭和二十年敗戦に伴う占領政策により除去せられて護国神社裏に仮設のまま二十三年を過ごしていた。明治百年を記念し勤王八志士の偉勲と壮烈な最後を偲び広く浄財を募ってここに復元再建することを得た。

文の内容は河合惣兵衛祈念碑のところとほぼ同じでした。
アメリカの占領政策として、日本の天皇陛下にまつわる話を無くす政策が取られていたことが感じられます。

姫路藩主
酒井忠績は江戸幕府最後の大老になるなど幕府側の大物政治家でした。
忠績自身、ゴリゴリの佐幕派で徳川家に忠誠を誓った人物で、政治的な立場からも勤皇派に対し厳しく対処したと考えられます。
それに対し、勤皇の思いで激しく戦ったのはすごい覚悟だったと思います。

甲子の獄

善導寺の河合騒兵衛の墓の説明板に書かれている内容を以下に記します。

河合惣兵衛宗元(かわいそうべえむねもと)
■文化十三年(1816)〜元治元年(1864)
 河合宗信の息子、家老河合家の庶流で家禄は 250 石。姫路藩家老
 河合道臣(寸翁)の創設した仁寿山校に学び、国学者の秋元安民らとともに勤皇の志をもつようになった。
 仁寿山校からは家老河合良翰(屏山)をはじめ、勤王思想を持った多くの藩士を輩出した。宗元もそのひとりで、武芸・学問に通じ藩校好古堂の肝煎を命じられ、勘定奉行や宗門奉行、物頭なども務めた。
姫路藩内における勤王派の中心的人物であった。

■文久ニ年五月、藩主 酒井忠績は就封の途中、京都所司代代理を命じられる。
 その際、家中から宗元や萩原政輿、伊舟城致美ら勤王派藩士を上京させて京都の警備にあたらせた。
 彼らは何度かの上京で諸藩の志士や公家との交流も深まり、宗元にいたっては自らの死をかけて幕府へ攘夷を迫るよう姉小路公知に進言したり、三条実美邸に出入りするほどだった。
 しかしこの頃尊攘派は天誅と号するテロ活動を激化させており、姫路藩の勤王派藩士もこの影響を強く受けることになった。
 文久三年一月には姫路城下で紅粉屋又左衛門が宗元の養嗣子
伝十郎宗貞や江坂行正らに暗殺され、それに呼応して萩原政輿と伊舟城致美らが岡田以蔵による賀川肇(千種家家臣)暗殺に加担した。
 これに対して忠績や保守派の家老
高須広正は、酒井家と徳川家との歴史的関係から佐幕派の立場を崩さなかった。
 同年六月、忠績は老中首座となり、八・一八政変が起きると九月には参内して孝明天皇に拝謁し、その後、十月には幕府海陸軍務掛および会計掛に任命され、将軍に代わり幕府を代表して政局にあたっていた。
こうした忠績は自らの政治的立場から勤王派藩士に対して抑圧的にならざるを得なかった。
 宗貞と江坂行正は藩政に見切りをつけると脱藩、その後宗貞の実父境野求馬の自殺を契機に、文久三年の暗殺事件が露見し、宗元は連座して逮捕された。
高須と対立する家老
河合良翰も江戸で幽閉され、勤王派の藩士も一斉検挙された。
 かって、宗元に命を救われた鳥取藩士
河田左久馬らは宗元に出奔し、鳥取藩に来ることを勧めたが、それでは老母を危険にさらし、他の藩士に苛酷な追求が及ぶため頑なに拒んだ。
 元治元年十ニ月二十六日、ついに彼らに判決が下り、河合宗元ら六人が自刃、その他六十名以上も即日断罪された。
脱藩を企てた宗貞と行正のニ人は斬罪に処せられた。(甲子の獄)

ひをむしの身をいかでかは惜しむべきただ惜まるる御代の行末(宗元辞世)

 宗元は自らの命よりも国の行く末を案じたが、その死から四年後、維新政府が成立すると、罪人として死んでいった彼らの名誉も回復された。
その後、阿保の無縁墓に埋葬された宗貞は景福寺に改葬された。
平成十六年(2004)十ニ月、宗貞の墓を景福寺から、宗元の眠る河合家の菩提寺である善導寺に移転した。