天竺徳兵衛は高砂の塩問屋赤穂屋の跡取り息子として慶長十七年(1612)に生まれました。
- 寛永三年(1626)10月、15歳で御朱印船 船頭前橋清兵衛の書役(書紀)として長崎からシャム(タイ)に渡る。
約一年滞在し、インドにも行き、寛永五年(1628)八月に帰国する。
このとき貝多羅葉を持ち帰る。 - 寛永七年(1630)11月、17歳のときにオランダ人ヤン・ヨーステンの船で再びタイに渡る。
- 寛永九年(1632)8月に帰国する。
高砂市船頭町の自治会館に徳兵衛の生誕地の石碑があります。
ここには徳兵衛の産湯に使われたと言い伝えられている古井戸がありました。
徳兵衛が旅したのは鎖国が完成する前でした。
寛永十年(1633)に在外五年以上の日本人の帰国が禁止されます。
寛永十二年には海外渡航と帰国が禁止されました。
晩年、徳兵衛は見聞記「渡海物語」を書いて長崎奉行に提出しました。
「渡海物語」には朱印船貿易家、航路、シャムとその周辺の地理、風俗、山田長政、現地の言葉が書かれていました。
朱印船は長さ36m、幅10m。乗込み員は397人。タイまで139日かかりました。
今なら簡単にタイに行けますが、当時はたいへんな旅でした。
鎖国の中、庶民の海外への関心も高く、徳兵衛の書いた「渡海物語」は人気になりました。
徳兵衛が渡航してから120年後、九代将軍 徳川家重の時代に徳兵衛をモデルに芝居が演じられ始めます。
- 宝暦七年(1757)歌舞伎「天竺徳兵衛聞書往来」
- 宝暦十三年(1763)人形浄瑠璃「天竺徳兵衛郷鏡」
- 明和五年(1768)歌舞伎「天竺徳兵衛故郷ノ取梶」
- 文化元年(1804)歌舞伎「天竺徳兵衛韓囃」
- 天保四年(1833)読本「敵討天竺徳兵衛」
いずれもヒットしたようです。
帰国後、徳兵衛は大阪上塩町に住み外国商品店を営んだそうです。
元禄八年(1695)84歳で死去。
徳兵衛のお墓が高砂市善立寺に残っています。
15歳、17歳でシャムに行ったのに、その後は鎖国のために国を出られなかった徳兵衛。
どう思って暮らしていたんでしょう。
鎖国がなければ、徳兵衛はもっと遠くまで行ったように思います。