加古川・定光寺

加古川市神野にある常光寺は播磨西国三十三箇所を定めた南室和尚が入寂した寺で、客番札所になっています。

常光寺

常光寺のホームページに歴史が説明されていました。
建武3年(1336)、足利尊氏が円光国師を奉じて開山。
火災で衰退するも、永正年間(1504〜1521)に赤松義村によって再興され、平原山祥光寺と称する。
天正年間(1573〜1592)に兵火によって焼失。
永禄年間(1558〜1570)に池田輝政によって再興され、常光寺となる。
慶安年間(1648〜1652)に姫路・慶雲寺から南室和尚を招き、中興開山の祖とし、山号を天徳山に代えた。
またも火災にあったが、万治年間(1658〜1661)に南室和尚によって再建される。

常光寺は火災にあうたびに復興した寺でした。
南室和尚(1591〜1671)は姫路の慶雲寺にいたのですが、慶運寺でも中興したといいます。
今だと、潰れかかった企業を再建する再生請負人的な和尚さんですね。それだけ、人を動かす力があったのでしょう。

常光寺は建武3年に創建された古い寺で、本尊の十一面観音菩薩立像は行基作と伝えられています。常光寺のお隣には神野小学校があるのですが、神野小学校の前身である天徳学校が作られたときには仮校舎として使われたことがあるそうです。
常光寺は地域と密接に関係してきた歴史があるのでしょうね。

常光寺からすぐのところに五輪塔があり、これは赤松義村の墓と伝えられています。
石の宝殿のところからでる竜山石で作られたもので、南北朝時代に作られたと考えられています。赤松義村は赤松家第十代当主で家臣・浦上氏による下剋上を受け、室津で殺されました。亡くなったのは大永元年(1521)なので、五輪塔が作られたという南北朝とは時代が違うようです。義村が常光寺を中興したことがあるので、義村の墓とされたのかもしれません。
義村は先代・赤松政則の婿養子になりましたが、政則の急死によって播磨は大混乱。内乱が起こるわ、家臣の浦上氏は歯向かってくるわ、さらに義母の洞松院が政治に口出ししてくるわ。本当にたいへんな時代でした。最後には浦上氏によって殺されますが、ちょっとお気の毒です。

赤松義村の墓

南室和尚が選定したという播磨西国三十三箇所は姫路を中心に播磨一円の、常光寺を含めて34の寺が選ばれています。そのうちのいくつかに行ったことはありますが、いつの日にかは全制覇したいと思います。