野見宿禰神社にお参りしました。
野見宿禰は相撲の神様。そのお墓が龍野にあるとは知りませんでした。
播磨風土記には次のように書かれています。
野見宿禰は出雲と大和を行き来していた。
あるとき、故郷の出雲へ帰る途中に日下部の里(たつの)で病気になり亡くなった。
野見宿禰の死を悲しみ、出雲から多くの人が来て川からバケツリレー式に石を運び墓を建てた。
野に人が立ち並んだことから、この地を「立野」と名付けた。
野見宿禰のエピソードとしては次の話もありました。
垂仁天皇の頃、当麻蹴速(たいまのけはや)という相撲の強いものがいた。
その当麻蹴速に対抗できるものとして、出雲にいた野見宿禰が大和に招かれた。
試合をしたところ、互いに蹴り合った末に、野見宿禰が蹴速の腰を踏み折り、蹴速を殺した。宿禰は垂仁天皇から当麻蹴速の領地(現奈良県葛城市當麻)を与えられ、垂仁天皇に仕えた。
垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命が亡くなられたとき、それまで行われていた殉死の代わりに埴輪を提案した。
天皇から土師臣(はじのおみ)の姓を与えられた。
蹴りあったというから、相撲というよりキックボクシングのようです。
殉死の風習を止めさせた神様でもありました。
たつの橋から野見宿禰神社が見えます。向こうの山の中腹に見える白いところが野見宿禰神社です。
野見宿禰神社へは麓にある龍野神社の脇から山を登っていきます。
力水の碑がありました。地方巡業でたつのを訪れた力士たちは野見宿禰神社にお参りしたようです。
”力水”の文字は第44代横綱 栃錦の直筆です。
栃錦は1955〜1960まで横綱を務め、ライバル若乃花と栃若時代を築きました。幕内優勝は10回。日本相撲協会の理事長も務めました。
力水をこえると石の鳥居が現れます。どんどん山へ登っていきます。
途中に龍野公園展望台があります。
三木露風が七歳のとき、幼稚園から帰ってくると母(かた)は離婚し、鳥取の実家に去っていました。母が恋しい露風は、淋しくなると一人この山に登り遠く彼方を見つめていたといわれています。
階段を登っていくと”芸姑の玉垣”があらわれます。
君千代さん、小君さん、梅吉さんなどの名前が刻まれています。親柱の横山治作氏は地元出身の人物だそうです。
最後の階段を登って野見宿禰神社に到着。
石の扉があります。扉にある紋章は野見宿禰と関わりがある出雲大社千賀家の家紋とのことです。
神社の周りの玉垣に相撲取りの名が刻まれています。
石の扉の向こうに小さな祠がありました。
野見宿禰神社からたつの市街がきれいに見えました。