三木露風の生家は龍野城の隣りにあります。
三木露風は明治二十二年(1889)に生まれました。
父は三木節次郎、母はカタ。露風の本名は操(みさお)。
三木家は、藩政時代は寺社奉行の家で祖父の制(すさむ)は奉行、初代龍野町長、九十四銀行の頭取を務めました。
父、三木節次郎は三木家の次男で九十四銀行に務めました。
母、カタは鳥取藩家老和田家の次女で、後に看護婦・女性解放運動家として活躍しました。
弟は勉(つとむ)。三歳違いです。
母は私が幼年の頃に長い歌を歌って聞かせてくれた。
それが子守唄であった。私は母がその長い詩をたびたび歌ってくれたことを覚えている。それを聞くと、なんとも言えず、懐かしい気がした。
父の節次郎は放蕩息子で、酒に溺れるようになりました。
露風が七歳(満五歳)のときに両親は離婚。露風は祖父に引き取られます。
母カタは弟の勉を連れて鳥取に帰りました。
お引越しとかいうことで荷物を片付けているのをあとにして幼稚園に出掛けたが、もどってくると表は板で斜めに釘づけられ、母はおらず、祖母のとしが迎えに来ていて、祖父 制の家に連れていかれた。
父 節次郎はその後、神戸にいたが、再婚し正夫をもうけ、龍野に戻ります。さらに節次郎は三度目の結婚をし、残りの生涯を神戸で暮らしました。
母 カタは上京し看護婦となります。その後、小樽で新聞記者をしていた碧川企救男(きくお)と結婚しました。
露風は淋しくなると裏山に登り遠く彼方を見ていたそうです。
吾れや七つ 母と添い寝の夢や夢
十とせは情け 知らずに過ぎぬ
三木露風の詩には、両親が離婚し母がいなくなった影響が大きいそうです。
露風は21歳(明治42年 1909年)のときの詩集『廃園』を世に出します。
永井荷風が激賞。北原白秋の「邪宗門」と並び称されました。
露風の作にはすぐ近くにある聚遠亭を舞台にしたものがあります。
ふるさとの 小野の木立に 笛の音の うるむ月夜や。
少女子(をとめご)は 熱きこゝろに そをば聞き 涙ながしき。
十年(とゝせ)經ぬ、おなじ心に 君泣くや 母となりても。
赤とんぼの詩は大正十年(1921)に発刊された童謡集「真珠島」に収められています。
龍野公園に赤とんぼの碑があります。
この前に立つと赤とんぼのメロディーが流れてきます。作曲者は山田耕筰です。
夕焼小焼の、赤とんぼ
負われて見たのは、いつの日か
山の畑の、桑の実を
小籠(こかご)に摘んだは、まぼろしか
十五で姐(ねえ)やは、嫁に行き
お里のたよりも、絶えはてた
夕焼小焼の、赤とんぼ
とまっているよ、竿(さお)の先
『三木露風 赤とんぼの情景 著者 和田典子 神戸新聞総合出版センター』
を参考にさせていただいました。