三日月・乃井野陣屋

乃井野陣屋は宍粟市三日月に建てられた陣屋です。
三日月藩は初代藩主・森長俊が美作から三日月に移った元禄10年(1697)に始まり、明治維新まで森家がこの地を治めました。

森家は織田信長に仕えた森蘭丸につながる一族です。
初代:長俊 津山藩主・森忠政の孫。長俊は津山藩が改易になり三日月に移る。
二代:長記 狩りや漁を好み、屋敷に戻るのは朝方だったため「森の夜鷹」と呼ばれた。
三代:俊春 三日月に加えて美作の領地を預かり、五万石の大名となった。 
四代:俊韶 三代藩主・俊春の長男。
五代:快温 広島藩・浅野家から養子に入る。学問に熱心で藩校・広業館を建てた。
六代:長義 新見藩・関家から養子に入る。
七代:長篤 赤穂藩・森家から養子に入る。
八代:長国 六代藩主・長義の長男。
九代:俊滋 黒船来航。三方里山演武場を作る。明治維新を迎え、版籍奉還する。

三日月のマーク

乃井野陣屋

乃井野陣屋は元禄13年(1700)頃に出来上がったとされています。
明治維新の廃藩置県で三日月藩はなくなり、森家は華族となって東京へ引っ越し。
陣屋は明治十年から小学校として使われました。その後は移築されて、公民館などに使われたようです。
今の乃井野陣屋の物見櫓と表御門は当時の建物で、他は復元されたものです。
陣屋の建物の中は資料館になっています。

乃井野陣屋
通用御門

物見櫓は中に入って、2階に上がることができます。陣屋の裏側の空き地に藩主の建屋などがあったそうです。

物見櫓
ここに藩主の建屋があった

 

陣屋内部ではいろいろな展示がありました。

三日月という名の由来

三日月の名の由来は2通り考えられています。

① 播磨風土記説
仁徳天皇の頃、伯耆国の加具漏(かぐろ)と因幡国の邑由胡(おほゆこ)が朝廷をないがしろにしていた。朝廷から派遣された佐夜(さよ)は二人を捕らえ、罰として水の中につけてこらしめた。「水につける」が、三日月に変わった。

②執権北条時頼の回国伝説
第五代執権・北条時頼は位を譲った後、僧の姿で全国を旅した。北条時頼が三日月の地を訪れ、三ヶ月間とどまり、歌と木像を残した。この「三ヶ月」が三日月となった。

どちらの説が正しいかはわかりませんが、「三日月」という名はカッコイイ感じがします。

兵庫県の陣屋

三日月藩は城を持たず、陣屋という建物を作りました。
江戸時代の終わり頃、兵庫県には18の藩がありましたが、城を持っていたのは7藩で、残りの11藩は陣屋でした。

城持ちの藩
・姫路藩(酒井家)
・龍野藩(脇坂家)
・赤穂藩(森家)
・明石藩(松平家)
・尼崎藩(桜井家)
・篠山藩(青山家)
・出石藩(仙石家)

陣屋の藩
・林田藩(建部家)
・安志藩(小笠原家)
・山崎藩(本多家)
・三日月藩(森家)
・福本藩(池田家)
・小野藩(一柳家)
・三田藩(九鬼家)
・三草藩(丹羽家)
・柏原藩(織田家)
・豊岡藩(京極家)
・村岡藩(山名家)

甲冑の変遷

森家の祖は八幡太郎義家につながります。
源平のときに着ていた大鎧は室町後期になくなっていたそうです。

甲冑の変遷

表門

陣屋から少し離れたところにある表門は江戸時代のものです。

説明看板によると「安永三年(1774)四月六日に棟上げ式が行われ、八月十五日に初通行がなされた。朝は六時頃開門し、夕方六時頃閉門した。」ということです。

列祖神社

森家の先祖、森可成、森忠政、森長俊を祀る神社です。もとは江戸三日月藩邸で祀っていましたが、明治三年に三日月に移されました。

拝殿に三日月藩郭内の図があります。当時の陣屋と陣屋町が描かれています。

三日月藩郭内の図

庭園跡も残っていました。

復元したものとはいえ、陣屋の建物は立派でした。
いろいろな展示があって、勉強にもなりました。ここを訪問してよかった。