庶民を救った固寧倉

姫路藩では固寧倉(こねいそう)という食料備蓄庫が作られていました。

酒井家はすでに前橋藩時代の貞享2年(1685)低利貸付制度である社倉法を実施し、寛延2年(1749)姫路転封から9年の後当地でも施行していた。
文化6年(1809)飾西郡町村組大庄屋らが河合寸翁に備荒貯蓄を目的とする倉庫の創設を建議し、藩主酒井忠道がこれを取り上げ、各村からの創設願をうけて1ヶ村または2~3ヶ村に1ヶ所、備荒貯蓄を目的とする固寧倉が設置されていき、文化10年(1813)までに60ヶ所、弘化3年(1846)までに288ヶ所に設置された。
固寧倉の名称は幕府儒者の林述斎が『書経』の「民惟邦本、本固邦寧」から撰んだものと伝える。

姫路市ホームページより

固寧という言葉は「民惟邦本、本固邦寧(たみはこれくにのもと、もとかたければくにやすし)」という儒教の言葉から来ています。
庶民が豊かになれば藩(国)が安定するという考えです。
姫路藩主 酒井忠道が昌平坂学問所の塾頭 林述斎に命名を要請して、この名がつけられました。

固寧倉は災害時に食物を提供するだけではなく、災害のないときには安い利息で米、麦の貸し付けを行い、庶民の暮らしを安定させました。

固寧倉発祥の地

姫路市夢前町置塩に発祥の地の看板があります。
固寧倉創設を提案(建議)した衣笠弥惣左衛門は飾西郡町村(置塩)の大庄屋でした。

置塩は寛延二年の姫路一揆で最も激しい抗議活動が行われた地区です。この記憶が固寧倉を造るという発想に結びついたのではないかと思います。

固寧倉発祥の地

残っている固寧倉

最盛期は288箇所の固寧倉があったそうですが、現在はほとんど取り壊されています。

野里の固寧倉
白浜の固寧倉
東山の固寧倉
妻鹿の固寧倉

固寧倉の創設は姫路藩家老 河合寸翁が行った事業の一つで、寸翁が43歳のときに固寧倉の建設が始まりました。
そして、河合寸翁が70歳ぐらいのときに天保の飢饉が発生します。しかし、この大災害に対して、固寧倉が役に立ち、姫路の被害は少なかったと伝えられています。
自分が若いときに携わった事業によって、民衆が救われているのを見たときはうれしかっただろうと思います。