太子町・徳道上人堂

兵庫県太子町矢田部に徳道上人堂があります。
徳道上人は長谷寺の開基や西国33箇所霊場巡りなどで知られた奈良時代の僧です。

徳道上人の俗名は辛矢田部造米麿呂。
父は矢田部造、母は菽子。その姓から矢田部地区の韓人を支配した渡来系の人物と考えられています。
生まれたのは斉明天皇2年(656)。
母菽子は明星が降ってきて口の中に入る夢を見て、身ごもったといいます。
11歳で父、19歳で母が亡くなります。
無常を感じた米麿呂は仏道を求める旅に出、生涯の師 道明上人に出会います。
道明のもとで修行し、天武天皇4年(675)出家。名を「徳道」と改めます。
徳道は霊木から十一面観音像を造り、長谷寺を創建します。
また、同じ霊木から城崎の温泉寺、加西市の普光寺の観音像が造られました。
徳道上人は長谷寺だけではなく40を超えるお寺を創建します。
千手宝鉢という術を用い、孝謙天皇の病を治したとも伝えられています。当時、仏教は最先端の科学技術、医療技術だったのでしょう。
養老2年(718)、徳道上人は亡くなります。冥土に旅立った上人は、そこで閻魔大名から「人々に功徳を広めるため、観音霊場を知らしめて欲しい」と頼まれ、現世に生き返ります。
このことから西国33箇所霊場が生まれていきます。

徳道上人は長谷寺の伝えでは天平宝字5年(761)、地元矢田部の伝えでは天平年間(729〜749)または天平元年(729)に亡くなったとされています。天平宝字5年だと100歳以上の年齢になるので、矢田部の言い伝えのほうが真実に近いような気がします。

徳道上人堂

徳道上人は神亀年中(724〜728)地元矢田部に住みました。

上人は揖保川の堰を作って水利を良くし、農業をすすめ、畦焼きをはじめて虫害を少なくするなど、地元に貢献しました。

徳道上人堂の近くには上人にまつわるお寺があります。

教興寺

教興寺には徳道上人の蓮池の跡があります。

山門
本堂

蓮池跡の碑には次の説明があります。

  • 天平8年(736) 德道上人によって蓮常寺が創建された。
  • 上人は天竺(インド)から渡来した蓮の実を植えた。それは純白無比の蓮花であった。
  • やがて七堂伽藍がそろった真言宗の名刹となった。
  • その後、天文元年(1532)僧宗圓が浄土真宗に帰依し、教興寺を開基した。
蓮池跡の碑

大きなお寺ではないですが、長い歴史があるんだと思いました。

清光寺

清光寺は上人が矢田部に帰ってこられたときの草庵あとに建てられたお寺です。
山門前に「徳道上人草庵跡」の碑が建てられています。

山門と「徳道上人草庵跡」の碑
本堂

恩徳寺

お寺の開基について、次の説明がありました。

  • 思徳寺は養老六年(722)徳道上人が父母の恩徳を報ずるため観音菩薩を奉り、約1300年前に開基された。
  • 徳道上人は霊木から観音像三体を造った。その中の一体を郷里に送り精舎を建立しようと大蔵山に材石を集めたが、一夜にして洪水に流された。
  • 流された観音像はこの地に止ったため、ここを霊地と定め、大伽藍を創建した。
仁王門
本堂

観音像を造った霊木は長谷寺の十一面観音像の霊木と同じだったのでしょうか。

徳道上人=法道仙人説

法道仙人はインドから雲に乗ってやってきて、徳道上人と同じように多くのお寺を創建したと伝えられている謎の人物です。
その法道仙人は徳道上人と同一人物ではないか、という説があります。
「徳」の草書体は「法」と読めてしまうこともあるようで、「徳道」という字が草書体で書き写されていくうちに、「法道」になったのではないかということです。

法道仙人が日本で最初に建てたお寺は一乗寺。白雉元年(650)に創建されたと伝えられています。徳道上人は斉明天皇2年(656)に生まれているので、少し時代が違います。それでも、かけ離れているわけではありません。
お二人とも多くのお寺を開基していて、似ているところがあります。

法道仙人はインドから飛んできたり、空鉢伝説などがある空想的な人物です。それに対して徳道上人は実在の人物です。
徳道上人の話が法道仙人の伝説に変わっていった可能性もありそうです。
しかし、法道仙人の話は楽しい。
今のままで、はっきりわかってしまわないほうが良いと思います。

また、徳道上人堂があるのは太子町矢田部。矢田部という地名は1300年以上続いています。
地名は歴史のタイムカプセルであるということがわかります。
地名は大事にしないといけませんね。