深川七福神

深川七福神めぐりをしました。次の神社、お寺に七福神がおられます。

富岡八幡宮(恵比寿神)
冬木弁天堂(弁財天)
心行寺(福禄寿)
円珠院(大黒天)
龍光院(毘沙門天)
深川稲荷神社(布袋尊)
深川神明宮(寿老神)

また七福神巡りの途中に深川不動堂、霊巌寺、松尾場所ゆかりの芭蕉稲荷神社などに立ち寄りました。

深川七福神・富岡八幡宮

寛永4年(1627)永代島と呼ばれた現在地に創建された江戸最大の八幡宮。
深川七福神の恵比寿神の神社です。また、東京十社巡りの神社でもあります。

境内には大関力士碑、巨人力士身長碑、横綱力士碑など、相撲に関係する碑が建てられています。
貞享元年(1684)幕府から許しを得て、富岡八幡宮で春と秋の勧進相撲が行われました。富岡八幡宮は今に続く相撲興行発祥の地です。

巨人力士身長碑は釈迦獄という巨人力士の碑です。
釈迦獄は江戸時代 寛永2年(1749)生まれの力士で、身長7尺5寸(2.25m)、体重45貫(170kg)。今の相撲取りで、もっと体重のある力士はいますが、ここまで背が高い力士はいないと思います。

大関力士碑、巨人力士身長碑

横綱力士碑には歴代横綱の名が刻まれています。
新横綱になったときに横綱力士碑に名が刻まれ、富岡八幡宮で土俵入りが行われます。テレビで見る新横綱の土俵入りはここで行われていたのですね。

横綱力士碑

初代横綱は明石志賀之助。江戸時代の相撲取りです。大鵬、貴乃花、白鵬などの名横綱の名があります。

境内に入ったところに伊能忠敬の像があります。伊能忠敬は深川に住んでいて、測量旅行に出発するときは富岡八幡宮にお参りしたそうです。
伊能忠敬像の横に三等三角点のモニュメントがあります。測量のもとになる三角点があるというのがいいですね。

伊能忠敬像
三等三角点

深川不動堂

深川不動堂は通称で、正式名称は成田山東京別院深川不動堂。

元禄16年(1703)富岡八幡宮で成田山の御本尊の不動明王像が開帳されたことが始まりです。御本尊は弘法大師さま自身が彫り、開眼したと伝えられています。

鳥居をくぐって不動堂へ行く通りは人情深川ご利益通りと名付けられていました。

本堂は真言梵字壁といい建物の周りにびっしりと梵字が描かれています。
旧本堂は、戦争で前の本堂が焼失したため千葉県印旛沼の龍福寺の地蔵堂を移築したものだそうです。平成23年(2011)4月まで本堂として使われました。

本堂
旧本堂

深川七福神・冬木弁天堂

七福神の弁財天のお寺です。

材木商冬木五郎右衛門直次が承応3年(1654)に江州(滋賀県)竹生島の弁財天の分霊を日本橋茅場町の邸内に祀り、その後宝永2年(1705)に孫の弥平次が深川の現在地に移しました。

句碑もありました。

岡野智十氏の句で
 名月や
 銭かねいわぬ
 世が恋し

句碑

深川七福神・心光寺

七福神の福禄寿のお寺です。

光蓮社団誉一露屋道が開山、岩国領主・吉川広嘉の妻・養源院が開基で、元和2年(1616)八丁堀で創立されました。寛永10年(1633)深川に移転しました。

福禄寿は六角堂に安置されています。

塀沿いは宝篋印塔、地蔵像などが並びます。
五重層石塔は元享4年(1324)で江東区で最も古い年号が刻まれたものだそうです。

六角堂
影窓院地蔵、宝篋印塔
五重層石塔

曲亭馬琴誕生の地

心行寺から延寿院へ行く途中に、南総里見八犬伝を書いた「曲亭馬琴誕生の地の碑」がありました。
本名は滝沢興邦。ペンネームが曲亭馬琴です。滝沢馬琴だと思っていたのですが、馬琴生前はそういう呼び方はなかったということで、滝沢馬琴と呼ぶのは間違いだそうです。

馬琴は「南総里見八犬伝」、「椿説弓張月」を書いた江戸のベストセラー作家です。「南総里見八犬伝」は完成させるのに28年掛かり、最後は目の酷使により失明。息子の嫁・お路に口述筆記してもらい完成させました。
馬琴は読本、黄表紙、随筆など470種の著作を残しました。その数に驚きます。

子供の頃、NHKで南総里見八犬伝の人形劇が放映されました。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の8つの玉を持った勇士が集まり、敵をやっつけるという話で、毎日観ていたように思います。

深川七福神・円珠院

円珠院は浄心寺の塔頭の一つです。七福神の大黒天がおまつりされています。

義勝院日演が開山、永井讃岐守直允の後室(円珠院殿妙献日寄大姉)の開基。享保年間に創建されました。

円珠院

浄心寺は四代将軍・徳川家綱の乳母・三沢局の帰依を受け、日義上人が開山、その弟子の日通により創建されました。将軍家より十万石の格式を許されたというお寺です。

浄心寺

本堂は特徴のある形をしています。山門脇には「蔵魄塔」という関東大震災の犠牲者を供養する供養塔が建立されています。

本堂
蔵魄塔

間宮林蔵の墓

龍光院へ行く途中、間宮林蔵の墓がありました。

間宮林蔵は樺太(サハリン)が島であることを確認して、その名が間宮海峡として残る探検家です。
林蔵は北方の探検後、幕府の隠密になって薩摩藩島津氏などのスパイ活動をしたようです。今の時代だと、探検で有名になったあとは、テレビに出たりしながら、その道で食べていけるのに。江戸時代は厳しい。

深川七福神・龍光院

龍光院には毘沙門天がおまつりされています。
慶長16年(1611)日本橋馬喰町に創建され、天和2年(1682)深川へ移転されました。

龍光院

霊厳寺

龍光院から深川稲荷神社へ行く途中にあります。

霊巌寺は寛永元年(1624)雄誉霊巌上人によって開山されました。日本橋付近の霊厳島に建立されましたが、明暦3年(1657)の明暦の大火で霊現寺も延焼。万治元年(1658)深川に移転しました。

霊厳寺には松平定信の墓があります。松平定信は「寛政の改革」を主導しました。田沼時代のあとに寛政の改革が行われ、倹約を旨とした緊縮政策でした。文化、風俗にたいしても締め付けが厳しく、江戸の戯作者山東京伝らは罰せられたりしました。
華やかだった田沼時代が懐かしいと「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌が残っています。

定信自身は文化にも造詣が深く、幕府の職を離れたあと、山東京伝とも交わりを持つなどの文化活動をしています。
田沼時代には天明の飢饉が起こったりしているので、「農業を大切に。倹約しよう。」という考えも間違ってはないように思いますが、楽しみが制限されると嫌になるでしょう。

また、霊巌寺には江戸六地蔵の一つである銅造地蔵菩薩坐像があります。享保2年(1717)に建立されました。

深川七福神・深川稲荷神社

布袋尊がおまつりされています。寛永七年(1630)の創立です。ご祭神は宇賀魂尊。

近くに相撲部屋がありました。錣山部屋です。錣山部屋は元関脇の寺尾関が親方をされています。すばしこい動きで、小兵ながら大きな相手をやっつける相撲でかっこよかった。
今は、阿炎関が幕内でがんばっています。

錣山部屋

萬代橋

小名木川に掛かる橋です。現在の橋は昭和5年(1930)に開通しました。

芭蕉稲荷神社

松尾芭蕉をおまつりする芭蕉稲荷神社は芭蕉庵跡に建てられた神社です。
芭蕉は延宝8年(1680)から元禄7年(1694)に大阪で亡くなるまで住みました。
ここから奥の細道の旅に出発し、ここで奥の細道を著しました。

芭蕉稲荷神社
芭蕉庵史跡展望庭園の芭蕉像

深川七福神・深川神明宮

慶長年間(1596〜1615)の創建です。深川の地名の由来となった深川八郎右衛門が伊勢から分霊を勧請し、創建したと伝えられています。

深川神明宮では祭りが盛んなようです。
例祭は3年に一度の「本祭り」とその間の「陰祭り」があります。「本祭り」では本殿祭、神幸祭(宮神輿巡行)、町神輿連合渡御(勢揃い)、稚児行列が行われるます。

宮神輿巡行では12基の大神輿が行列を組んで練り歩き、沿道から担ぎ手に清めの水がかけられるそうです。播磨の祭りとどう違うのでしょうか。チャンスがあれば見てみたい。

鳥居をくぐると、12基の大神輿を格納する神輿庫が並んでいます。

神輿庫

宮神輿巡行では12基の大神輿が行列を組んで練り歩き、沿道から担ぎ手に清めの水がかけられるそうです。播磨の祭りとどう違うのでしょうか。チャンスがあれば見てみたい。

七福神巡りをして、寺社の創建は1600年代のものばかりでした。徳川家康が江戸で幕府を開いて、そこから色々なものが生まれていったということを示していると思います。
家康は日本を従えただけではなく、現在につながる都市開発をやってくれました。