目黒・大円寺

大円寺山門

行人坂にある松林山大円寺。
寛永年間(1624〜1644)に修験僧大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切り開いて道場を建てたのが始まりとされています。
大円寺を拠点とした修験道の行者が、この坂道を行き来したことから坂の名前は行人坂となりました。

行人坂は平均勾配が約16%と非常に急な坂道です。目黒駅から大円寺までは下りだったので良かったのですが、帰りの登りはきつかった。勾配16%は初心者用のスキーゲレンデとほぼ同じ。登りのリフトがあればと思いました。

本堂

大円寺は明和9年(1772)に起こった明和の大火(行人坂火事)の火元となっています。
この火事は死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えるという大災害となりました。
振袖火事(明暦3年/1657)、文化の大火(文化3年/1806)と並ぶ江戸三大火のひとつです。
出火原因は真秀という僧侶による放火でした。

境内にある500を超える石仏は火事の犠牲者を供養するために造られました。

五百羅漢

境内に行人坂敷石造道供養碑、寺の脇に目黒川架橋供養勢至菩薩石像があります。
どちらも西運という僧侶に関係があるものでした。

行人坂敷石造道供養碑

念仏行のために目黒不動尊と浅草観音に参詣した行者が、その途中で人々から寄進を受け、それを資金として行人坂に敷石の道を造りました。この工事の成就と往来の安全を祈願して行人坂敷石造道供養碑が建てられました。この工事の施主は西運上人でした。

目黒川架橋供養勢至菩薩石像

目黒川架橋供養勢至菩薩石像には、西運上人が目黒不動尊と浅草観音に参詣し、その道中で受けた寄進によって、目黒川の太鼓橋(雁歯橋)を架けたことが刻まれています。

この西運上人は八百屋お七の恋の相手、吉三でした。
お七が火炙りの刑で亡くなったあと、吉三は明王院という寺に入り僧侶となり、名を西運と改めます。
西運は目黒不動堂から浅草観音堂の往復10里の道を念仏を唱えて参詣する隔夜一万日の行を成し遂げました。

明王院は明治の廃仏毀釈でなくなり、その跡地はホテル雅叙園になっています。
そして、雅叙園の入り口に「お七の井戸」がありました。

お七の井戸

西運は念仏業に出かけるとき、明王院のこの井戸でお七の菩提を念じながら水垢離をとったとされています。

お七と吉三が出会ったのは天和の大火(1683)。その後、吉三会いたさにお七が放火、火あぶりの刑。吉三は僧侶になって行人坂の開発などを成し遂げる。
天和の大火から90年後、大円寺は明和の大火の火元になる。
お七、吉三と大円寺の明和の大火。なぜか火事と縁があるのが不思議です。